【感想】雨の日の図書館はとてもしずかでなぜだろう土の匂いがする 法橋ひらく
- 2015/11/03
- 23:42
雨の日の図書館はとてもしずかでなぜだろう土の匂いがする 法橋ひらく
ほらここは風の逃げ道 地下書庫へ降りるときよくすれ違うひと 〃
(他の者たちは図書館と呼んでいるが) 宇宙は、真ん中に大きな換気孔があり、きわめて低い手すりで囲まれた、不定数の、おそらく無限数の六角形の回廊で成り立っている。どの六角形からも、それこそ際限なく、上の階と下の階が眺められる。回廊の配置は変化がない。一辺につき長い本棚が五段で、計二十段。それらが二辺をのぞいたすべてを埋めている。その高さは各階のそれであり、図書館員の通常の背丈をわずかに越えている。 ボルヘス「バベルの図書館」
【レニングラード・カウボーイズ・ゴー・ライブラリー】
ひらくさんの図書館短歌ってすてきなんですよ。
で、それってなんだろうって考えてたんだけれど、たぶんじぶんがすてきだなって感じたのが図書館にいながら図書館じゃない場所に根付いてしまっているんですよね、図書館にあまりにいすぎたために。
つまりですね、図書館を重ねていくと、図書館じゃない場所にふっと出るんですよ。
いったいやぎもとはなにをいいはじめてしまっているのか。
短歌をみてみると具体的にわかるんですが、たとえば掲歌の「雨の日の図書館」の歌は「雨の日の図書館」を日々通うことによってその性質を知ったうえで語り手は「土の匂いがする」という場所へたどりついている。
晴れの日も雨の日も雪の日もたぶん嵐の日も図書館にいたことによって〈雨の日だけの図書館のありよう〉に気が付いている。そして「図書館」を「土」へと還元している。図書館から土の大地へ抜けたわけです。図書館にいながらにして〈外〉に出たんですよ。バベルの図書館でも行いえなかった、図書館を超越するという試みがこの短歌の31音で実行しえた、それがすてきなんじゃないかとおもうんですよ。
「地下書庫へ降りるときよくすれ違う」も語り手の「よくすれ違う」に語り手がどれだけその図書館に〈いる〉のかってことがわかりますよね。「すれ違う」だから〈距離感〉があるんですよ。不慣れなわけです、関係的には。でも「よく」なんですよ。そうした図書館に癒着はできていない感じとしての「すれ違う」が、でも図書館に自分は時間を重ねているんだという「よく」がここには同時にあらわれている。
図書館っていうのは、本とであうための場所ではなくて、「土」や「ひと」と出会うための場所なんですよ。
本はじつは二次的でいい。それが図書館だった。いや、図書館を生きようとするもののありようだった。
そこがすてきなんじゃないかっておもうんですよ、図書館短歌として。
図書館はそこで生きる場所じゃない。生きられる場所なんですよ。みいだされる場所としてある、日々ちがったかたちで・短歌によって組み換えられて。
風に舞うレジ袋たちこの先を僕は上手に生きられますか 法橋ひらく
わたしは、人類は絶滅寸前の状態にあり、図書館──明るい、孤独な、無限の、まったく不動の、貴重な本にあふれた、無用の、不壊の、そして秘密の図書館──だけが永久に残るのだと思う。 ボルヘス「バベルの図書館」
カウリスマキ『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』(1989)。カウリスマキの映画ってヴェンダースやキアロスタミの映画のように〈流転〉や〈放浪〉〈移動〉が多いんですね。ただだからといって、根無し草でふらふらしているわけじゃなくて、その場その場をなんとかそれなりにじぶんのかたちで組み換え、その場を生きられるものにしようとしている。それがいいなっていつもカウリスマキの映画を観ていておもうんですよ。この映画のラストシーンを観ていると、映画ってなんだかほんとにいいなってつくづく思うんですよ。別にどこに住んでいようと、どこに住めなくても、定住者でなくても、放浪者であったとしても、しゅんかんてきに明滅するような〈ホーム〉はある。それを教えてくれる。
ほらここは風の逃げ道 地下書庫へ降りるときよくすれ違うひと 〃
(他の者たちは図書館と呼んでいるが) 宇宙は、真ん中に大きな換気孔があり、きわめて低い手すりで囲まれた、不定数の、おそらく無限数の六角形の回廊で成り立っている。どの六角形からも、それこそ際限なく、上の階と下の階が眺められる。回廊の配置は変化がない。一辺につき長い本棚が五段で、計二十段。それらが二辺をのぞいたすべてを埋めている。その高さは各階のそれであり、図書館員の通常の背丈をわずかに越えている。 ボルヘス「バベルの図書館」
【レニングラード・カウボーイズ・ゴー・ライブラリー】
ひらくさんの図書館短歌ってすてきなんですよ。
で、それってなんだろうって考えてたんだけれど、たぶんじぶんがすてきだなって感じたのが図書館にいながら図書館じゃない場所に根付いてしまっているんですよね、図書館にあまりにいすぎたために。
つまりですね、図書館を重ねていくと、図書館じゃない場所にふっと出るんですよ。
いったいやぎもとはなにをいいはじめてしまっているのか。
短歌をみてみると具体的にわかるんですが、たとえば掲歌の「雨の日の図書館」の歌は「雨の日の図書館」を日々通うことによってその性質を知ったうえで語り手は「土の匂いがする」という場所へたどりついている。
晴れの日も雨の日も雪の日もたぶん嵐の日も図書館にいたことによって〈雨の日だけの図書館のありよう〉に気が付いている。そして「図書館」を「土」へと還元している。図書館から土の大地へ抜けたわけです。図書館にいながらにして〈外〉に出たんですよ。バベルの図書館でも行いえなかった、図書館を超越するという試みがこの短歌の31音で実行しえた、それがすてきなんじゃないかとおもうんですよ。
「地下書庫へ降りるときよくすれ違う」も語り手の「よくすれ違う」に語り手がどれだけその図書館に〈いる〉のかってことがわかりますよね。「すれ違う」だから〈距離感〉があるんですよ。不慣れなわけです、関係的には。でも「よく」なんですよ。そうした図書館に癒着はできていない感じとしての「すれ違う」が、でも図書館に自分は時間を重ねているんだという「よく」がここには同時にあらわれている。
図書館っていうのは、本とであうための場所ではなくて、「土」や「ひと」と出会うための場所なんですよ。
本はじつは二次的でいい。それが図書館だった。いや、図書館を生きようとするもののありようだった。
そこがすてきなんじゃないかっておもうんですよ、図書館短歌として。
図書館はそこで生きる場所じゃない。生きられる場所なんですよ。みいだされる場所としてある、日々ちがったかたちで・短歌によって組み換えられて。
風に舞うレジ袋たちこの先を僕は上手に生きられますか 法橋ひらく
わたしは、人類は絶滅寸前の状態にあり、図書館──明るい、孤独な、無限の、まったく不動の、貴重な本にあふれた、無用の、不壊の、そして秘密の図書館──だけが永久に残るのだと思う。 ボルヘス「バベルの図書館」
カウリスマキ『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』(1989)。カウリスマキの映画ってヴェンダースやキアロスタミの映画のように〈流転〉や〈放浪〉〈移動〉が多いんですね。ただだからといって、根無し草でふらふらしているわけじゃなくて、その場その場をなんとかそれなりにじぶんのかたちで組み換え、その場を生きられるものにしようとしている。それがいいなっていつもカウリスマキの映画を観ていておもうんですよ。この映画のラストシーンを観ていると、映画ってなんだかほんとにいいなってつくづく思うんですよ。別にどこに住んでいようと、どこに住めなくても、定住者でなくても、放浪者であったとしても、しゅんかんてきに明滅するような〈ホーム〉はある。それを教えてくれる。
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