【感想】牛久のスーパーCGほどの美少女歩み来しかも白服/まぼろしの館の中の水着かな 関悦史
- 2015/11/04
- 12:00
牛久のスーパーCGほどの美少女歩み来しかも白服 関悦史
まぼろしの館の中の水着かな 〃
僕はひとり散歩してゐるうちに歯医者の札を出した家を見つけた。が、二三日たつた後、妻とそこを通つて見ると、そんな家は見えなかつた。僕は「確かにあつた」と言ひ、妻は「確かになかつた」と言つた。それから妻の母に尋ねて見た。するとやはり「ありません」と言つた。しかし僕はどうしても、確かにあつたと思つてゐる。その札は齒と本字を書き、イシヤと片仮名を書いてあつたから、珍らしいだけでも見違へではない。 芥川龍之介「鵠沼雑記」
【関悦史とCGの芥川龍之介、或いは美少女】
関さんの俳句って、ハイパーリンクハイクというか、リンクがあちこちに無作為に無秩序に無軌道に飛び交っている俳句のようにおもうんですね。だから、俳句というよりも〈リン句〉といえばいいのでしょうか。
で、そのリンクも時代や歴史が変わっていくなかでだんだんとリンクの質感そのものも変わってくる。だから、自己生成する俳句というか、俳句そのものは変わらないんだけれどリンクのありかたが変わっていくことによって生成していく〈ハイ(パーリン)句〉のようにおもうんですよ。
牛久のスーパーCGほどの美少女歩み来しかも白服 関悦史
たとえばこの句なんかだと「CGほどの美少女」をどうサブカルチャーの〈美少女〉とリンクを貼るかが問われつつも(CGの質感もどんどん変わっていく)、同時に、「白服」という季語がこれまでの俳句の系譜のなかでどうリンクできるかも問われている。また「牛久」という地名ですね、「CG」の表層世界と「牛久」のリアルな土地名がお互いに語り手の視界をとおしてリンクを張り合っている。たとえばアニメ好きのひとがアニメの舞台を訪れる〈聖地巡礼〉もある意味で表層的なアニメとリアルな土地に自分の身体や視界でもって〈リンク〉を張り直す行為ですよね。
で、以前から、「まぼろしの館の中の水着かな」っていう句が気になってたんですが、たとえばこの句は芥川龍之介の「鵠沼雑記」とのリンクでみることができるようにもおもう(もちろん、まったく違ったやりかたで文学テクストでなく、たとえばホラー映画にリンクを貼ってもいいようにも思います)。
僕は風向きに従つて一様に曲つた松の中に白い洋館のあるのを見つけた。すると洋館も歪んでゐた。僕は僕の目のせゐだと思つた。しかし何度見直しても、やはり洋館は歪んでゐた。これは不気味でならなかつた。 芥川龍之介「鵠沼雑記」
まずそもそも芥川龍之介の「鵠沼日記」で問われているのは、手応えのなかにある〈まぼろし〉です。具体的質感をともなったまぼろしといってもいいかもしれない。関さんの句も「まぼろしの館」と具体的質感をともなった「水着」の対比が印象的だとおもうんです。
で、いま引用した芥川のテクスト。〈み〉てしまったせいで「白い洋館」がゆがんでいることがわかる。なんどみなおしてもゆがんでいるのは、すでに語り手の〈み〉る行為そのものが〈ゆがみ〉に汚染されているからだとおもうんですが、関さんの句の視覚のありかたもふしぎで「まぼろし」を通してその「中」に具体物=水着を〈み〉ているというふしぎなゆがみかたをしています。
僕はやはり散歩してゐるうちに白い水着を着た子供に遇つた。子供は小さい竹の皮を兎のやうに耳につけてゐた。僕は五六間離れてゐるうちから、その鋭い竹の皮の先が妙に恐しくてならなかつた。その恐怖は子供とすれ違つた後も、しばらくの間はつづいてゐた。 芥川龍之介「鵠沼雑記」
こんな「水着」から始まる〈恐怖〉の感情も「鵠沼雑記」には出てきます。「水着」やうさぎの耳のような「竹の皮」とい観察=視覚が〈恐怖〉をひきおこします(〈先端恐怖〉のようなものもある)。〈視覚〉が恐怖をひきおこす。〈視覚〉のゆがみが恐怖そのものである。
関さんの句も、「まぼろし」から入っているので、語り手の視覚がまずリアル/まぼろしという二項対立から入っているのが特徴的です。ただそれが「の中の」と具体的手続きのもとに視線が移動し、「水着かな」と具体化されることによってリアル/まぼろしの境界が溶解していく。だとしたらそもそも「まぼろしの館」という視覚そのものがすでにゆがんでいたのではないか、とか。
そんなふうに関さんの句にリンクを張ってみるとどんなふうに読めるのかということが問われているようにもおもう。
もしくはこんなふうに考えることもできるかもしれない。俳句というものはこれから無数のリンクが張られつづける〈途上〉としてあるものなのであり、だからこそ、すべての俳句は〈未完〉なのだと。
ネット社会をも閉ぢ込めて『城』未完なれ 関悦史
僕は夢を見てゐるうちはふだんの通りの僕である。ゆうべ(七月十九日)は佐佐木茂索君と馬車に乗つて歩きながら、麦藁帽をかぶつた馭者に北京(ペキン)の物価などを尋ねてゐた。しかしはつきり目がさめてから二十分ばかりたつうちにいつか憂鬱になつてしまふ。唯灰色の天幕テントの裂け目から明るい風景が見えるやうに時々ふだんの心もちになる。どうも僕は頭からじりじり参つて来るのらしい。 芥川龍之介「鵠沼雑記」
今川泰宏『ジャイアントロボ 地球が静止する日』(1994)。この『ジャイアントロボ』では父親の遺言に最後まで〈リンク〉が誤ったかたちで張られつづけることによってたくさんのひとが〈平凡な誤解〉のもとで死んでいくんですね。そもそも〈伝達〉や〈理解〉っていうのは言葉に対してリンクを張ることです。でもそれが誤ってしまうことがある。そのときひとは〈どう〉するのか。芥川のように歪んだリンクしか手にいれられない場合はどうすればいいのか。
ちなみに『ジャイアントロボ』にはかっこいいおじさんたちがたくさん出てきます。たぶんアニメ史上いちばんおじさんが活躍しているアニメなのではないか。
まぼろしの館の中の水着かな 〃
僕はひとり散歩してゐるうちに歯医者の札を出した家を見つけた。が、二三日たつた後、妻とそこを通つて見ると、そんな家は見えなかつた。僕は「確かにあつた」と言ひ、妻は「確かになかつた」と言つた。それから妻の母に尋ねて見た。するとやはり「ありません」と言つた。しかし僕はどうしても、確かにあつたと思つてゐる。その札は齒と本字を書き、イシヤと片仮名を書いてあつたから、珍らしいだけでも見違へではない。 芥川龍之介「鵠沼雑記」
【関悦史とCGの芥川龍之介、或いは美少女】
関さんの俳句って、ハイパーリンクハイクというか、リンクがあちこちに無作為に無秩序に無軌道に飛び交っている俳句のようにおもうんですね。だから、俳句というよりも〈リン句〉といえばいいのでしょうか。
で、そのリンクも時代や歴史が変わっていくなかでだんだんとリンクの質感そのものも変わってくる。だから、自己生成する俳句というか、俳句そのものは変わらないんだけれどリンクのありかたが変わっていくことによって生成していく〈ハイ(パーリン)句〉のようにおもうんですよ。
牛久のスーパーCGほどの美少女歩み来しかも白服 関悦史
たとえばこの句なんかだと「CGほどの美少女」をどうサブカルチャーの〈美少女〉とリンクを貼るかが問われつつも(CGの質感もどんどん変わっていく)、同時に、「白服」という季語がこれまでの俳句の系譜のなかでどうリンクできるかも問われている。また「牛久」という地名ですね、「CG」の表層世界と「牛久」のリアルな土地名がお互いに語り手の視界をとおしてリンクを張り合っている。たとえばアニメ好きのひとがアニメの舞台を訪れる〈聖地巡礼〉もある意味で表層的なアニメとリアルな土地に自分の身体や視界でもって〈リンク〉を張り直す行為ですよね。
で、以前から、「まぼろしの館の中の水着かな」っていう句が気になってたんですが、たとえばこの句は芥川龍之介の「鵠沼雑記」とのリンクでみることができるようにもおもう(もちろん、まったく違ったやりかたで文学テクストでなく、たとえばホラー映画にリンクを貼ってもいいようにも思います)。
僕は風向きに従つて一様に曲つた松の中に白い洋館のあるのを見つけた。すると洋館も歪んでゐた。僕は僕の目のせゐだと思つた。しかし何度見直しても、やはり洋館は歪んでゐた。これは不気味でならなかつた。 芥川龍之介「鵠沼雑記」
まずそもそも芥川龍之介の「鵠沼日記」で問われているのは、手応えのなかにある〈まぼろし〉です。具体的質感をともなったまぼろしといってもいいかもしれない。関さんの句も「まぼろしの館」と具体的質感をともなった「水着」の対比が印象的だとおもうんです。
で、いま引用した芥川のテクスト。〈み〉てしまったせいで「白い洋館」がゆがんでいることがわかる。なんどみなおしてもゆがんでいるのは、すでに語り手の〈み〉る行為そのものが〈ゆがみ〉に汚染されているからだとおもうんですが、関さんの句の視覚のありかたもふしぎで「まぼろし」を通してその「中」に具体物=水着を〈み〉ているというふしぎなゆがみかたをしています。
僕はやはり散歩してゐるうちに白い水着を着た子供に遇つた。子供は小さい竹の皮を兎のやうに耳につけてゐた。僕は五六間離れてゐるうちから、その鋭い竹の皮の先が妙に恐しくてならなかつた。その恐怖は子供とすれ違つた後も、しばらくの間はつづいてゐた。 芥川龍之介「鵠沼雑記」
こんな「水着」から始まる〈恐怖〉の感情も「鵠沼雑記」には出てきます。「水着」やうさぎの耳のような「竹の皮」とい観察=視覚が〈恐怖〉をひきおこします(〈先端恐怖〉のようなものもある)。〈視覚〉が恐怖をひきおこす。〈視覚〉のゆがみが恐怖そのものである。
関さんの句も、「まぼろし」から入っているので、語り手の視覚がまずリアル/まぼろしという二項対立から入っているのが特徴的です。ただそれが「の中の」と具体的手続きのもとに視線が移動し、「水着かな」と具体化されることによってリアル/まぼろしの境界が溶解していく。だとしたらそもそも「まぼろしの館」という視覚そのものがすでにゆがんでいたのではないか、とか。
そんなふうに関さんの句にリンクを張ってみるとどんなふうに読めるのかということが問われているようにもおもう。
もしくはこんなふうに考えることもできるかもしれない。俳句というものはこれから無数のリンクが張られつづける〈途上〉としてあるものなのであり、だからこそ、すべての俳句は〈未完〉なのだと。
ネット社会をも閉ぢ込めて『城』未完なれ 関悦史
僕は夢を見てゐるうちはふだんの通りの僕である。ゆうべ(七月十九日)は佐佐木茂索君と馬車に乗つて歩きながら、麦藁帽をかぶつた馭者に北京(ペキン)の物価などを尋ねてゐた。しかしはつきり目がさめてから二十分ばかりたつうちにいつか憂鬱になつてしまふ。唯灰色の天幕テントの裂け目から明るい風景が見えるやうに時々ふだんの心もちになる。どうも僕は頭からじりじり参つて来るのらしい。 芥川龍之介「鵠沼雑記」
今川泰宏『ジャイアントロボ 地球が静止する日』(1994)。この『ジャイアントロボ』では父親の遺言に最後まで〈リンク〉が誤ったかたちで張られつづけることによってたくさんのひとが〈平凡な誤解〉のもとで死んでいくんですね。そもそも〈伝達〉や〈理解〉っていうのは言葉に対してリンクを張ることです。でもそれが誤ってしまうことがある。そのときひとは〈どう〉するのか。芥川のように歪んだリンクしか手にいれられない場合はどうすればいいのか。
ちなみに『ジャイアントロボ』にはかっこいいおじさんたちがたくさん出てきます。たぶんアニメ史上いちばんおじさんが活躍しているアニメなのではないか。
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