【ふしぎな川柳 第六夜】ぼくのことですか-むさし-
- 2015/11/05
- 00:12
老人というのは僕のことですか むさし
道元、「お幾つになられる」
典座、「六十八歳」
道元、「どうして助手をお使いにならぬ」
典座、「かれは俺でない」
道元、「あなたは生真面目すぎる。日ざしもこんなにきびしい。何でそんなに働きなさる」
典座、「いったい、何時を待てばよいのです」
道元『典座教訓』
【かれは俺でない】
〈老人〉や〈若者〉っていう普通名詞がありますよね。
で、実は〈老人〉や〈若者〉っていうのはいなくて、固有名をもったひとりひとりがそこにいるだけなんだけれど、集合的に表象してしますしゅんかんが、ある。あたかも老人や若者がそこにいるように。
それはいいんです。そういうこともあるから。
でも、むさしさんのこの句がおもしろいのは、「僕のことですか」というように読み手に対して、それからじぶんじしんに対しても問いを突き出しつづけているところなんじゃないかと思うんです。
もちろん定型なので〈答え〉はなくて、あえて〈答え〉をいうなら、この「ですか」だとおもうんですね。「ですか」がずっと漂いつづけていくんだろう、というのがこの句の答えになっているとおもうんですよ。
で、もしかすると「老人」という集合体が解体されるなら、ひょっとするとこの「僕」というのも解体されてしまうんじゃないかというリスクもこの句は内包しているとおもうんですよ。「老人」と発話したときにだけ「老人」があらわれるなら、「僕」だって「僕」と発話したときにだけ発現するものなんだろう。だとすると、「老人」も「僕」もこの句が発話されたしゅんかん、だんだんと解体されていってしまう、ということは、最終的に「ですか」という問いかけも解体していってしまう。問い自体が解体されていってしまう、そういう句なんじゃないかとおもうんですよ。
その意味で、ふしぎだなっておもうんです。なんにもなくなってしまうような句のようなきがする。読み終わったあとに。
なんにも決まらない。決められない。でも時間だけは流れてる。句のなかに。
あと5分 仮面とクツが決まらない むさし
『ウルトラセブン』(1967)。ウルトラセブンにあるのはいつも〈地球人〉とはだれのことなのか、〈宇宙人〉とはだれなのか、という問いかけだとおもうんです。そういう問いかけがずっと再帰的につづいていく。それってたとえば同時代の文脈でいうなら、アメリカ人とはだれか、日本人とはだれか、共産主義者とはだれか、国民とはだれか、だれはどこに帰属するのかという冷戦体制のなかでずっと問われていた問題だったのではないかとおもうのです。でもほんとうに肝心なのは〈わたし〉とはいったいだれなのか、どこからどこまでもが変身で仮面なのかという問題です。帰属とは歴史的に構築された〈仮面〉でもあるので。
帰属ということには二つの契機がある。
一つは出自に典型的に表れているような帰属の登録、ラカン用語で言えばSの次元であり、もう一つは生き方の形、ラカン用語で言えばIの次元で機能するもの、つまりイメージの授受である。
この二つの契機がいっしょに作用して帰属が機能する。
田村公江『精神分析学を学ぶ人のために』
道元、「お幾つになられる」
典座、「六十八歳」
道元、「どうして助手をお使いにならぬ」
典座、「かれは俺でない」
道元、「あなたは生真面目すぎる。日ざしもこんなにきびしい。何でそんなに働きなさる」
典座、「いったい、何時を待てばよいのです」
道元『典座教訓』
【かれは俺でない】
〈老人〉や〈若者〉っていう普通名詞がありますよね。
で、実は〈老人〉や〈若者〉っていうのはいなくて、固有名をもったひとりひとりがそこにいるだけなんだけれど、集合的に表象してしますしゅんかんが、ある。あたかも老人や若者がそこにいるように。
それはいいんです。そういうこともあるから。
でも、むさしさんのこの句がおもしろいのは、「僕のことですか」というように読み手に対して、それからじぶんじしんに対しても問いを突き出しつづけているところなんじゃないかと思うんです。
もちろん定型なので〈答え〉はなくて、あえて〈答え〉をいうなら、この「ですか」だとおもうんですね。「ですか」がずっと漂いつづけていくんだろう、というのがこの句の答えになっているとおもうんですよ。
で、もしかすると「老人」という集合体が解体されるなら、ひょっとするとこの「僕」というのも解体されてしまうんじゃないかというリスクもこの句は内包しているとおもうんですよ。「老人」と発話したときにだけ「老人」があらわれるなら、「僕」だって「僕」と発話したときにだけ発現するものなんだろう。だとすると、「老人」も「僕」もこの句が発話されたしゅんかん、だんだんと解体されていってしまう、ということは、最終的に「ですか」という問いかけも解体していってしまう。問い自体が解体されていってしまう、そういう句なんじゃないかとおもうんですよ。
その意味で、ふしぎだなっておもうんです。なんにもなくなってしまうような句のようなきがする。読み終わったあとに。
なんにも決まらない。決められない。でも時間だけは流れてる。句のなかに。
あと5分 仮面とクツが決まらない むさし
『ウルトラセブン』(1967)。ウルトラセブンにあるのはいつも〈地球人〉とはだれのことなのか、〈宇宙人〉とはだれなのか、という問いかけだとおもうんです。そういう問いかけがずっと再帰的につづいていく。それってたとえば同時代の文脈でいうなら、アメリカ人とはだれか、日本人とはだれか、共産主義者とはだれか、国民とはだれか、だれはどこに帰属するのかという冷戦体制のなかでずっと問われていた問題だったのではないかとおもうのです。でもほんとうに肝心なのは〈わたし〉とはいったいだれなのか、どこからどこまでもが変身で仮面なのかという問題です。帰属とは歴史的に構築された〈仮面〉でもあるので。
帰属ということには二つの契機がある。
一つは出自に典型的に表れているような帰属の登録、ラカン用語で言えばSの次元であり、もう一つは生き方の形、ラカン用語で言えばIの次元で機能するもの、つまりイメージの授受である。
この二つの契機がいっしょに作用して帰属が機能する。
田村公江『精神分析学を学ぶ人のために』
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:ふしぎな川柳-川柳百物語拾遺-