【感想】父はいない生きているけど父はいないうそなんだけど父はいない 平岡あみ
- 2015/11/05
- 12:00
父はいない生きているけど父はいないうそなんだけど父はいない 平岡あみ
冷蔵庫の悪霊を呼ぶ父なき日 寺山修司
システムの終りは暗い水の壁しずかに割れて顔を出す父 加藤治郎
亡き父が夢の廊下を歩みきて太き柱にかくれたまひぬ 小池純代
日本の近代小説は、エディパルな関係の上に成り立っている。エディパルな関係から逃れる道や方法がない、だからアンチ・エディプスな小説はなかなか書けなかったのだと思う。人間関係の中で父親とか母親とか兄とかの関係から脱出できない。家から出ようと思ったら、それこそ「死」しかない 水田宗子『漱石研究10』
【父と時間】
短歌と川柳をつくっていてどういうふうに使い分けているのかという質問を以前いただいたことがあるんですが、その違いは自分の感覚でいえば、どれだけそこに滞在できるかという《滞在時間》のようにおもうんですね(たしか穂村弘さんは以前、短歌と俳句の違いを跳躍のための《助走距離》から説明されていました)。
短歌と川柳では生成される時間の質感が、ちがう。
たとえば平岡さんの短歌では三回「父はいない」が出てくることによって「父はいない」と語られながらも、スパイラルな父との時間が生成されていく、時間が生成され語り手のわたしと共有されざるをえないうえで「いない」とことばが時間を裏切っていく、それがこの短歌なんじゃないかとおもうんですね。
「父はいない」とさんかいも発話できるほどに、《父はそこにいる》。でもその時間をことばが裏切っていく、裏切ろうとしている、でも繰り返された発話は裏切りきれずに、父がそこにいるということをあからさまにしてしまう。
だからこその二度の「けど」だとおもうんですよ。「生きているけど」「うそなんだけど」と否定が重ねられていくんだけれども、でもその「けど」がなんのための逆接の「けど」なのかが「けど」が重ねられることによって失調していく。「けど」に《失敗》してしまううから、語り手は重ねて「けど」といったとおもうんですね。
だからこの歌ではどの言葉がクリティカルに意味を決め打ちするのかがわからないような歌になっているんじゃないかとおもう。
だから「父はいる」し「父はいない」の《あわい》にある歌だとおもうんですね。
そういう言葉のスパイラルのなかで父が明滅しながら、語り手であるわたしも父を語りつつ明滅していく。と同時にその語り手によって使われたことば=短歌も明滅していく。そういう歌なんじゃないかと。
父や母を歌うときってそこで主体がかっちりとまとまるか、あるいはそのことによて主体が散逸していくかのそのどちらかなのではないかとおもうんですよ。
ラカンは《父なる法=大文字の主体》が言葉を機能させるといったけれど、でも《父なる法》が失調したなかでもことばをつむいでいく場合がある。そのとき、なんだか定型が《法》として機能している場合もあるのかなともおもうんです。
それに《父なる法》だけでなく、《母の法》もある。
母と目が初めて合ったそのときの心でみんな死ねますように 岡野大嗣
ヴィクトル・エリセ『ミツバチのささやき』(1973)。エリセの『エル・スール』もそうなのだけれど、エリセの映画は父親が父親らしく機能せず《不在》のままに大きな存在としてせりだしてくる。父は決して娘に暴力的介入をしようとはせず、距離感があり、その意味で、父と娘の関係は他者と他者なのであり、リスキーな関係にもつながっていく。《父親とはいったいだれなのか》を親子の関係からみすえるのではなく、他者と他者に還元したうえで意味付け(そこね)ていくこと
冷蔵庫の悪霊を呼ぶ父なき日 寺山修司
システムの終りは暗い水の壁しずかに割れて顔を出す父 加藤治郎
亡き父が夢の廊下を歩みきて太き柱にかくれたまひぬ 小池純代
日本の近代小説は、エディパルな関係の上に成り立っている。エディパルな関係から逃れる道や方法がない、だからアンチ・エディプスな小説はなかなか書けなかったのだと思う。人間関係の中で父親とか母親とか兄とかの関係から脱出できない。家から出ようと思ったら、それこそ「死」しかない 水田宗子『漱石研究10』
【父と時間】
短歌と川柳をつくっていてどういうふうに使い分けているのかという質問を以前いただいたことがあるんですが、その違いは自分の感覚でいえば、どれだけそこに滞在できるかという《滞在時間》のようにおもうんですね(たしか穂村弘さんは以前、短歌と俳句の違いを跳躍のための《助走距離》から説明されていました)。
短歌と川柳では生成される時間の質感が、ちがう。
たとえば平岡さんの短歌では三回「父はいない」が出てくることによって「父はいない」と語られながらも、スパイラルな父との時間が生成されていく、時間が生成され語り手のわたしと共有されざるをえないうえで「いない」とことばが時間を裏切っていく、それがこの短歌なんじゃないかとおもうんですね。
「父はいない」とさんかいも発話できるほどに、《父はそこにいる》。でもその時間をことばが裏切っていく、裏切ろうとしている、でも繰り返された発話は裏切りきれずに、父がそこにいるということをあからさまにしてしまう。
だからこその二度の「けど」だとおもうんですよ。「生きているけど」「うそなんだけど」と否定が重ねられていくんだけれども、でもその「けど」がなんのための逆接の「けど」なのかが「けど」が重ねられることによって失調していく。「けど」に《失敗》してしまううから、語り手は重ねて「けど」といったとおもうんですね。
だからこの歌ではどの言葉がクリティカルに意味を決め打ちするのかがわからないような歌になっているんじゃないかとおもう。
だから「父はいる」し「父はいない」の《あわい》にある歌だとおもうんですね。
そういう言葉のスパイラルのなかで父が明滅しながら、語り手であるわたしも父を語りつつ明滅していく。と同時にその語り手によって使われたことば=短歌も明滅していく。そういう歌なんじゃないかと。
父や母を歌うときってそこで主体がかっちりとまとまるか、あるいはそのことによて主体が散逸していくかのそのどちらかなのではないかとおもうんですよ。
ラカンは《父なる法=大文字の主体》が言葉を機能させるといったけれど、でも《父なる法》が失調したなかでもことばをつむいでいく場合がある。そのとき、なんだか定型が《法》として機能している場合もあるのかなともおもうんです。
それに《父なる法》だけでなく、《母の法》もある。
母と目が初めて合ったそのときの心でみんな死ねますように 岡野大嗣
ヴィクトル・エリセ『ミツバチのささやき』(1973)。エリセの『エル・スール』もそうなのだけれど、エリセの映画は父親が父親らしく機能せず《不在》のままに大きな存在としてせりだしてくる。父は決して娘に暴力的介入をしようとはせず、距離感があり、その意味で、父と娘の関係は他者と他者なのであり、リスキーな関係にもつながっていく。《父親とはいったいだれなのか》を親子の関係からみすえるのではなく、他者と他者に還元したうえで意味付け(そこね)ていくこと
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