【ふしぎな川柳 第八夜】長袖迷宮-なかはられいこ-
- 2015/11/05
- 12:30
長袖を手首出てくるまでが夢 なかはられいこ
【チェシャ猫は歌う「この俺は摩訶不思議。魔力をもった猫さ」】
なかはらさんの『脱衣場のアリス』を読んでいたときになかはらさんの川柳にとって着衣や脱衣ってどういうことを意味するんだろうってずっとかんがえていたんです。
たとえばアリスはキノコをたべたりふしぎな液体をのんだりして大きくなったり小さくなったり首だけ長くなったりしていましたよね。
でも服は変わらなかった。超人ハルクやスーパーサイヤ人みたいに服がはりさけるとかはないわけです。そうすると、アリスはなにを着衣したり脱衣したりしていたかといえば、それは〈身体〉を着衣したり脱衣したりしていたのではないか。だから、服はそもそも問題ではなかった。もっというなら、服は身体それ自身だった。
だからこんなふうにいうこともできる。アリスはずっと〈裸〉だったんだと。ふしぎのくにで。
そうかんがえるとなかはらさんの句集のタイトルとも響いてくるわけです。アリスはふしぎのくににいたんじゃなくて、むしろ、脱衣場に裸でいたんじゃないかって。そこでずっと大きくなったり小さくなったりしていた。言語崩壊にであったり、倒錯的な出来事にたちあったりしていた。
「長袖を手首出てくるまでが」という極端な密閉性がこの句では「夢」になっています。出口は、ある。でも長袖から手首をだすときは思い浮かべてみるとわかえるように、とちゅうでつっかえることもあるし、出口をまちがえる場合もある。場合によっては手首をだせないかもしれない。ジャミラ状態のまま、部屋でひとり、たちすくむことになるかもしれない。それもひとつの〈脱衣場のアリス〉のかたちだとおもうんですよ。手首を出すまでは〈着衣〉も〈脱衣〉もできない。ある意味、服と身体が乖離したままの、〈裸〉なんです。
でも、きっと、いつかは、通る。たぶん脱衣場のアリスが脱衣場を抜けたように(脱衣場にはチェシャ猫がいたので方向はさししめしてくれたはずです、少しだけ狂った方向かもしれないけれど)、いつかは〈通る〉がやってくる。身体は不可逆なのだし、いつまでも〈少女の身体〉ではいられないはずだから。
タンカーをひっそり通し立春す なかはられいこ
ディズニー『不思議の国のアリス』(1953)。どうして不思議の国とディズニーは親和性が高いのだろう。ひとつは、身体の柔軟さにあるように思う。ディズニーキャラクターは傷を負わないし、怪我もしない。不可逆の身体ではなく、可塑性をもった身体なのである。だから年をとらない。ディズニーにエイジングはない。でもアリスがもし脱衣場にいったら、自らの裸の身体をみて、皮膚や皺や肌理や襞がやがては〈老いる〉ことに気がついたのではないだろうか。でも、まだ、アリスは「長袖」のなかにしばらくはいるのだけれど。
【チェシャ猫は歌う「この俺は摩訶不思議。魔力をもった猫さ」】
なかはらさんの『脱衣場のアリス』を読んでいたときになかはらさんの川柳にとって着衣や脱衣ってどういうことを意味するんだろうってずっとかんがえていたんです。
たとえばアリスはキノコをたべたりふしぎな液体をのんだりして大きくなったり小さくなったり首だけ長くなったりしていましたよね。
でも服は変わらなかった。超人ハルクやスーパーサイヤ人みたいに服がはりさけるとかはないわけです。そうすると、アリスはなにを着衣したり脱衣したりしていたかといえば、それは〈身体〉を着衣したり脱衣したりしていたのではないか。だから、服はそもそも問題ではなかった。もっというなら、服は身体それ自身だった。
だからこんなふうにいうこともできる。アリスはずっと〈裸〉だったんだと。ふしぎのくにで。
そうかんがえるとなかはらさんの句集のタイトルとも響いてくるわけです。アリスはふしぎのくににいたんじゃなくて、むしろ、脱衣場に裸でいたんじゃないかって。そこでずっと大きくなったり小さくなったりしていた。言語崩壊にであったり、倒錯的な出来事にたちあったりしていた。
「長袖を手首出てくるまでが」という極端な密閉性がこの句では「夢」になっています。出口は、ある。でも長袖から手首をだすときは思い浮かべてみるとわかえるように、とちゅうでつっかえることもあるし、出口をまちがえる場合もある。場合によっては手首をだせないかもしれない。ジャミラ状態のまま、部屋でひとり、たちすくむことになるかもしれない。それもひとつの〈脱衣場のアリス〉のかたちだとおもうんですよ。手首を出すまでは〈着衣〉も〈脱衣〉もできない。ある意味、服と身体が乖離したままの、〈裸〉なんです。
でも、きっと、いつかは、通る。たぶん脱衣場のアリスが脱衣場を抜けたように(脱衣場にはチェシャ猫がいたので方向はさししめしてくれたはずです、少しだけ狂った方向かもしれないけれど)、いつかは〈通る〉がやってくる。身体は不可逆なのだし、いつまでも〈少女の身体〉ではいられないはずだから。
タンカーをひっそり通し立春す なかはられいこ
ディズニー『不思議の国のアリス』(1953)。どうして不思議の国とディズニーは親和性が高いのだろう。ひとつは、身体の柔軟さにあるように思う。ディズニーキャラクターは傷を負わないし、怪我もしない。不可逆の身体ではなく、可塑性をもった身体なのである。だから年をとらない。ディズニーにエイジングはない。でもアリスがもし脱衣場にいったら、自らの裸の身体をみて、皮膚や皺や肌理や襞がやがては〈老いる〉ことに気がついたのではないだろうか。でも、まだ、アリスは「長袖」のなかにしばらくはいるのだけれど。
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