【感想】少年を救うのは変か)(シャツに似た幽霊が跳ぶ乾燥機あり 加藤治郎
- 2014/06/24
- 17:24
少年を救うのは変か)(シャツに似た幽霊が跳ぶ乾燥機あり 加藤治郎
【バベルの括弧】
この短歌をはじめてみたときにすごくびっくりしました。こんな記号の使い方があるのかと。
ちなみに加藤さんから括弧を使った短歌を選んでいただいたことがあるのですが、一般的な括弧の使用例としてあげてみたいとおもいます。
「ねえきみがめがねなんだよ」男、云う。(あいかわらず、馬鹿)女、云わず。 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2014年5月19日 加藤治郎 選)
このわたしの短歌の括弧の場合は、ごく普通に流通している一般的な使用法で、「女」が云わないままに内面だけで「あいかわず、馬鹿」と思っているように、閉域としての内面をくくる括弧として使われています。この場合は、括弧はきちんと開始され、内面があり、またきちんと括弧で閉じられます。
でも、加藤さんの短歌はおどろくべきことに、括弧が閉じられ、そしてまた始まります。
この括弧に対していろんな解釈ができると思うんですが、わたしはひとつの未完として〈内面の未完〉もしくは〈中途としての断裂的な内面〉があるのではないかと思いました。
「少年を救うのは変か」と語り手は問いかけていますが、そのあとにくるのはその問いかけに対する応答ではなく、「シャツに似た幽霊が跳ぶ乾燥機あり」といった描写です。しかしこれもまた括弧にくくられはじめている以上はおそらくは内面でみている風景です。そして「)(」というかたちで断続してしまったものの、定型としてはゆるやかにつながっています。
つまり、「)(」としての記号効果は、分節と節合をゆるやかなかたちで同時に示すものとして機能しているように思うんですね。
語り手にとって「少年を救うのは変か」どうはわかりません。「シャツが跳ぶ乾燥機」は「変ではない」ですが、しかし「シャツに似た幽霊が跳ぶ乾燥機」は「変」です。でも、そのような「幽霊の跳躍」と「少年を救うかどうか」はゆるやかに切れつつ・つながっては、ちがったかたちの・おなじふうあいの位相として語られています。
ただここもひらかれた括弧のポイントだとおもうんですが、語り手はすべてを語ってはいません。かっこが開かれていない以上、このうたにはこんな潜在的可能態としてのひろがりもあるはずです。たとえば、
(無差別にひとを殺した少年を救うのは変か)(シャツに似た幽霊が跳ぶ乾燥機ありませんでした)
あくまで例示なのですが、わたしがいいたいのはひらかれた括弧はさまざまな潜在的可能態を呼び込む多義的な発話となるということです。それは意味のレベルでなく、量のレベルとしてもそうです。もしかしたらこの歌はバベルの図書館のような膨大なテキストのたった一説を抜き書きしたものかもしれないからです。
この歌で問われているのは、わたしは、記号を安心させないこと、記号を読むための補助輪として奉仕・隷属させておくのではなく、むしろ記号によって意味の分節がおびやかされるようなシーンを生成することなのではないかとおもっています。となると、こうもいえるのではないでしょうか。
加藤治郎さんは記号を用いた短歌が多くみられるのですが、むしろ記号をさかなでするような使用法を意図的に組み込むことによって意味の分節を問い直す、記号に対して反記号的使用法を実践する反記号短歌を実践する歌人だったのではないかと。
きみもきみも生きていなさい六月はエンドロールのように駆け足 加藤治郎
【バベルの括弧】
この短歌をはじめてみたときにすごくびっくりしました。こんな記号の使い方があるのかと。
ちなみに加藤さんから括弧を使った短歌を選んでいただいたことがあるのですが、一般的な括弧の使用例としてあげてみたいとおもいます。
「ねえきみがめがねなんだよ」男、云う。(あいかわらず、馬鹿)女、云わず。 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2014年5月19日 加藤治郎 選)
このわたしの短歌の括弧の場合は、ごく普通に流通している一般的な使用法で、「女」が云わないままに内面だけで「あいかわず、馬鹿」と思っているように、閉域としての内面をくくる括弧として使われています。この場合は、括弧はきちんと開始され、内面があり、またきちんと括弧で閉じられます。
でも、加藤さんの短歌はおどろくべきことに、括弧が閉じられ、そしてまた始まります。
この括弧に対していろんな解釈ができると思うんですが、わたしはひとつの未完として〈内面の未完〉もしくは〈中途としての断裂的な内面〉があるのではないかと思いました。
「少年を救うのは変か」と語り手は問いかけていますが、そのあとにくるのはその問いかけに対する応答ではなく、「シャツに似た幽霊が跳ぶ乾燥機あり」といった描写です。しかしこれもまた括弧にくくられはじめている以上はおそらくは内面でみている風景です。そして「)(」というかたちで断続してしまったものの、定型としてはゆるやかにつながっています。
つまり、「)(」としての記号効果は、分節と節合をゆるやかなかたちで同時に示すものとして機能しているように思うんですね。
語り手にとって「少年を救うのは変か」どうはわかりません。「シャツが跳ぶ乾燥機」は「変ではない」ですが、しかし「シャツに似た幽霊が跳ぶ乾燥機」は「変」です。でも、そのような「幽霊の跳躍」と「少年を救うかどうか」はゆるやかに切れつつ・つながっては、ちがったかたちの・おなじふうあいの位相として語られています。
ただここもひらかれた括弧のポイントだとおもうんですが、語り手はすべてを語ってはいません。かっこが開かれていない以上、このうたにはこんな潜在的可能態としてのひろがりもあるはずです。たとえば、
(無差別にひとを殺した少年を救うのは変か)(シャツに似た幽霊が跳ぶ乾燥機ありませんでした)
あくまで例示なのですが、わたしがいいたいのはひらかれた括弧はさまざまな潜在的可能態を呼び込む多義的な発話となるということです。それは意味のレベルでなく、量のレベルとしてもそうです。もしかしたらこの歌はバベルの図書館のような膨大なテキストのたった一説を抜き書きしたものかもしれないからです。
この歌で問われているのは、わたしは、記号を安心させないこと、記号を読むための補助輪として奉仕・隷属させておくのではなく、むしろ記号によって意味の分節がおびやかされるようなシーンを生成することなのではないかとおもっています。となると、こうもいえるのではないでしょうか。
加藤治郎さんは記号を用いた短歌が多くみられるのですが、むしろ記号をさかなでするような使用法を意図的に組み込むことによって意味の分節を問い直す、記号に対して反記号的使用法を実践する反記号短歌を実践する歌人だったのではないかと。
きみもきみも生きていなさい六月はエンドロールのように駆け足 加藤治郎
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