【ふしぎな川柳 第九夜】さあ、けりをつけよう-守田啓子-
- 2015/11/06
- 00:00
穴埋めの穴もなくなってしまいけり 守田啓子
天ぷらの揚がる音して終わりけり 筒井祥文
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに 小野小町
蛍狩われを小川に落しけり 夏目漱石
【なんもかんもが終わっちゃったことに気づいてしまいけり】
俳句では切れ字でもある「けり」っていう助動詞は、驚きの詠嘆(それまで気づかなかったことにふっと気づいた)で「~してしまった」というニュアンスの言葉だとおもうんですが、「けりがつく」という言い方があるようにどこかに〈終末感〉もただよっているんじゃないかとおもうんです。「切れ字」なのでそこで〈切れる〉わけです。
祥文さんの句が「終わりけり」となっているけれど、「終わってしまった、終わっちゃった」というように、なにかひとつの大きな出来事がふっと《思いがけなく》終わるようなかんじになっている(天ぷらが揚がったということは《これから》なのに)。
だから守田さんの句であえて古語の「けり」が採用されているのは、語り手がほんとうに《終わっちゃった》ことに驚いているからなんじゃないかとおもうんですよ。穴埋めの穴がなくなっちゃったことに。文字通り「けりがついてしまった」わけです。
穂村弘さんも短歌のなかでときどき古語の助動詞を使うけれど、現代の語法のなかでふっと古語の助動詞をくみあわせることによって、《そうすることによってしか捻出することのできない時間》をうんでいるんじゃないかとおもうんです。古語の助動詞って情報量が濃厚なわけですよね。少ない音律でも。
で、あと、もうひとつ口語のなかで古語の助動詞を使うことの理由にエクリチュールへの意識というか、書き言葉への意識があるのかなっておもうんです。古語の助動詞はふだんの口語ではもう使いませんよね。だから書き言葉でしかありえないわけだけれども、古語の助動詞が現代の語法と接着することによって《書く行為》が前景化されてくる。守田さんのこの句は「穴埋め」があたかも〈書く=埋める〉ことであるかのように、〈書く/書いている/書かれている意識〉の中で語られているわけです。
ではさいごに〈けり句〉のミニアンソロジーでお別れしましょう。
ひつじ雲もう許されてしまひけり 野口る理
へんなのと言はれ良夜となりにけり 喪字男
淡雪やゴジラのつま先冷えにけり イイダアリコ
ともだちと雛が鏡に入りけり 宮本佳世乃
おつぱいに近づく眼鏡外しけり 山田露結
秋某日好きと言わせてしまいけり 時実新子
周防正行/岩松了『異常の人々 伝説の虹の三兄弟』(1993)。岩松了の舞台ではよくそれまでたしかに潜在的には関係として流れていたはずなのに、ふとしたなんでもない無駄なことばのはずみでそれがあからさまになり〈気がついてしまう〉。その意味では〈けりの演劇〉だとも言える。ふしぎな三兄弟(竹中直人・田口トモロヲ・温水洋一)はある仲のよい主婦(荻野目慶子)の脱線することばによって《そんなにも仲がよくなかったこと》に気がついていく(ことばに裏切られてしまいけり、ということに気がついてしまいけり)。この〈気がついてしまいけり〉が充満する空間で、さいご、とうとつに階段から死んだはずの母親が降りてくる。いったいそれはだれなのか
天ぷらの揚がる音して終わりけり 筒井祥文
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに 小野小町
蛍狩われを小川に落しけり 夏目漱石
【なんもかんもが終わっちゃったことに気づいてしまいけり】
俳句では切れ字でもある「けり」っていう助動詞は、驚きの詠嘆(それまで気づかなかったことにふっと気づいた)で「~してしまった」というニュアンスの言葉だとおもうんですが、「けりがつく」という言い方があるようにどこかに〈終末感〉もただよっているんじゃないかとおもうんです。「切れ字」なのでそこで〈切れる〉わけです。
祥文さんの句が「終わりけり」となっているけれど、「終わってしまった、終わっちゃった」というように、なにかひとつの大きな出来事がふっと《思いがけなく》終わるようなかんじになっている(天ぷらが揚がったということは《これから》なのに)。
だから守田さんの句であえて古語の「けり」が採用されているのは、語り手がほんとうに《終わっちゃった》ことに驚いているからなんじゃないかとおもうんですよ。穴埋めの穴がなくなっちゃったことに。文字通り「けりがついてしまった」わけです。
穂村弘さんも短歌のなかでときどき古語の助動詞を使うけれど、現代の語法のなかでふっと古語の助動詞をくみあわせることによって、《そうすることによってしか捻出することのできない時間》をうんでいるんじゃないかとおもうんです。古語の助動詞って情報量が濃厚なわけですよね。少ない音律でも。
で、あと、もうひとつ口語のなかで古語の助動詞を使うことの理由にエクリチュールへの意識というか、書き言葉への意識があるのかなっておもうんです。古語の助動詞はふだんの口語ではもう使いませんよね。だから書き言葉でしかありえないわけだけれども、古語の助動詞が現代の語法と接着することによって《書く行為》が前景化されてくる。守田さんのこの句は「穴埋め」があたかも〈書く=埋める〉ことであるかのように、〈書く/書いている/書かれている意識〉の中で語られているわけです。
ではさいごに〈けり句〉のミニアンソロジーでお別れしましょう。
ひつじ雲もう許されてしまひけり 野口る理
へんなのと言はれ良夜となりにけり 喪字男
淡雪やゴジラのつま先冷えにけり イイダアリコ
ともだちと雛が鏡に入りけり 宮本佳世乃
おつぱいに近づく眼鏡外しけり 山田露結
秋某日好きと言わせてしまいけり 時実新子
周防正行/岩松了『異常の人々 伝説の虹の三兄弟』(1993)。岩松了の舞台ではよくそれまでたしかに潜在的には関係として流れていたはずなのに、ふとしたなんでもない無駄なことばのはずみでそれがあからさまになり〈気がついてしまう〉。その意味では〈けりの演劇〉だとも言える。ふしぎな三兄弟(竹中直人・田口トモロヲ・温水洋一)はある仲のよい主婦(荻野目慶子)の脱線することばによって《そんなにも仲がよくなかったこと》に気がついていく(ことばに裏切られてしまいけり、ということに気がついてしまいけり)。この〈気がついてしまいけり〉が充満する空間で、さいご、とうとつに階段から死んだはずの母親が降りてくる。いったいそれはだれなのか
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