【ふしぎな川柳 第十夜】暴力と塀-葉閑女-
- 2015/11/06
- 12:00
蹴飛ばしてやるか見事な塀だから 葉閑女
先生は三べん質問し、黄檗は三べんなぐりつけた。 『臨済録』
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ 〃
【拳の認識】
川柳を読んでいてふしぎだなあと思うことのひとつにけっこうな確率で〈暴力〉が出てくるということがあります。
これはなにか質問するとこれが答えだとすぐ殴られる『禅語録』並に出てきます。
たとえば禅においては〈ことば〉が忌避されるので、なにかに答えるときは〈殴る〉のがいちばんいいんですね。
わかってしまったら、間違いなわけです。でもわかんないのも間違いなわけでです。なんでかっていうと、〈わかんない〉って状態は、〈わかる〉の反対でしかないので、けっきょく〈わかる/わかんない〉の枠組みにとらわれているわけですね。だからそのどっちでもない場所につきとばすために〈殴る〉わけです。あるいは〈たたく〉。あるいはブッダでさえも〈斬ってころす〉。
ただ考えてみるとたとえばマンガの『ドラゴンボー』や『ワンピース』『ジョジョの奇妙な冒険』も基本的には〈ことば〉の閾値じゃなくて、〈こぶし〉の閾値でものをかんがえているわけですよね。これが答えだ、というふうに、なぐる。だからちょっと禅の質感にちかいのかなとおもうんですよ、少年マンガは。理屈じゃないんだ、っていうところが。
で、川柳も少年マンガや禅に近いところがある。理屈じゃないんだっていう、〈拳の認識〉を展開している。葉さんの句は「蹴飛ば」すだから、〈けりの認識〉ですね。ともかく殴ったりけったりしてみることでそこから〈暴力の認識〉で世界を展開していく。
そういう認識の展開方法がひとつある、ってことなんじゃないかとおもうんですよ。
機関車トーマスを正面から殴る 湊圭史
ミヒャエル・ハネケ『セブンス・コンチネント』(1989)。映画のなかの〈暴力〉っていうとひとつミヒャエル・ハネケがずっと映画を通して問いかけているのかなって思うんですよ。スティーブン・キングがいちばんこわいのは最終回までなにもなかった静かな家庭が、最終回においてとつぜん殺し合うことだといっているだけれど、まさに〈それ〉がこの映画では行われている。でもその〈暴力〉の意味がオーディエンスにはわからないんですよ。なぜ・どうしてその〈暴力〉が発現しているのかがわからない。で、その〈わからない〉ことが暴力性そのものになっている。暴力っていうのは言葉の排除をとおしてはじめて成立しうるものなんじゃないかっておもうんです。
現代では原因を分析した小説を書きたがる小説家などどこにもいない。人はいつも目の前に現れたものを通して物語る。もし説明が欲しいのなら、構造で説明すればいい。物語の構造は何かの説明になってる。だがそれは常にあいまいで、説明的に物語る方法とは対立する。 ミヒャエル・ハネケ
先生は三べん質問し、黄檗は三べんなぐりつけた。 『臨済録』
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ 〃
【拳の認識】
川柳を読んでいてふしぎだなあと思うことのひとつにけっこうな確率で〈暴力〉が出てくるということがあります。
これはなにか質問するとこれが答えだとすぐ殴られる『禅語録』並に出てきます。
たとえば禅においては〈ことば〉が忌避されるので、なにかに答えるときは〈殴る〉のがいちばんいいんですね。
わかってしまったら、間違いなわけです。でもわかんないのも間違いなわけでです。なんでかっていうと、〈わかんない〉って状態は、〈わかる〉の反対でしかないので、けっきょく〈わかる/わかんない〉の枠組みにとらわれているわけですね。だからそのどっちでもない場所につきとばすために〈殴る〉わけです。あるいは〈たたく〉。あるいはブッダでさえも〈斬ってころす〉。
ただ考えてみるとたとえばマンガの『ドラゴンボー』や『ワンピース』『ジョジョの奇妙な冒険』も基本的には〈ことば〉の閾値じゃなくて、〈こぶし〉の閾値でものをかんがえているわけですよね。これが答えだ、というふうに、なぐる。だからちょっと禅の質感にちかいのかなとおもうんですよ、少年マンガは。理屈じゃないんだ、っていうところが。
で、川柳も少年マンガや禅に近いところがある。理屈じゃないんだっていう、〈拳の認識〉を展開している。葉さんの句は「蹴飛ば」すだから、〈けりの認識〉ですね。ともかく殴ったりけったりしてみることでそこから〈暴力の認識〉で世界を展開していく。
そういう認識の展開方法がひとつある、ってことなんじゃないかとおもうんですよ。
機関車トーマスを正面から殴る 湊圭史
ミヒャエル・ハネケ『セブンス・コンチネント』(1989)。映画のなかの〈暴力〉っていうとひとつミヒャエル・ハネケがずっと映画を通して問いかけているのかなって思うんですよ。スティーブン・キングがいちばんこわいのは最終回までなにもなかった静かな家庭が、最終回においてとつぜん殺し合うことだといっているだけれど、まさに〈それ〉がこの映画では行われている。でもその〈暴力〉の意味がオーディエンスにはわからないんですよ。なぜ・どうしてその〈暴力〉が発現しているのかがわからない。で、その〈わからない〉ことが暴力性そのものになっている。暴力っていうのは言葉の排除をとおしてはじめて成立しうるものなんじゃないかっておもうんです。
現代では原因を分析した小説を書きたがる小説家などどこにもいない。人はいつも目の前に現れたものを通して物語る。もし説明が欲しいのなら、構造で説明すればいい。物語の構造は何かの説明になってる。だがそれは常にあいまいで、説明的に物語る方法とは対立する。 ミヒャエル・ハネケ
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