【感想】朝焼けを見たことがないどんなことして生きてきたのだろうわたしは 兵庫ユカ
- 2015/11/06
- 23:56
朝焼けを見たことがないどんなことして生きてきたのだろうわたしは 兵庫ユカ
【洗濯機と不穏】
兵庫さんの歌集『七月の心臓』からの一首です。
短歌のなかの〈わたし〉っていろんなありかたがあると思うんですが、歌によって構築される〈わたし〉があると同時に、歌によっては解体されつづける〈わたし〉というものもあると思うんです。
ずっと脱線しつづける、というか、定型は一度パックにしたらもう永劫そのままなので、ずっとその定型のなかで〈わたし〉はずれつづけている。定位できないわたしが洗濯機のなかでまわりつづける服のようにずっとぐるぐるまわっている。
この兵庫さんの歌で、反定位されている〈わたし〉っていうのは、たぶん、〈朝焼けをみて充実しているわたし〉だとおもうんですね。語り手はなんとなくそういう〈わたし〉もあるんだっていうことに気がついている、もしくは気がついてしまった。
そういう充実したわたしが世界にはあるらしい一方で、でも、じぶんは「朝焼けを見たことがない」。そこで過去の履歴をまさぐりはじめている。
でもこれってちょっと不穏なのが。
朝焼けを見たことがないどんなことして生きてきたのだろうわたしは(朝焼けを見たことがないどんなことして生きてきたのだろうわたしは(朝焼けを見たことがないどんなことして生きてきたのだろうわたしは…
とずっと〈わたし〉の同語反復のなかに陥っていきそうな不穏さです。〈わたし〉を「朝焼けを見たことがある/ない」で定位しようとしたしゅんかん、〈わたし〉のトートロジーにおちいってしまう。
これってたぶん、ほんとうは、「朝焼けをみたかどうか」が問われているわけではないんじゃないか、っておもうんですよ。
ほんとうに問われているのは、「朝焼け」といったようなことでふいに解体しそうになってしまう〈わたしの定位のありかた〉なのではないかとおもうんです。
そういう〈わたしの定位の微妙さ〉がこの兵庫さんにはすごくよくあらわれているんじゃないかっておもうんですね。
〈わたし〉をさがしあてることが重要なんじゃなくて、〈わたしのさがしかた〉そのものの定位をまさぐること。それがこの歌が問いかけていることなんじゃないかと、おもう。
敢えて「僕」のさみしさを言う 雪の日にどこかへ向かうレントゲンバス 兵庫ユカ
チャップリン『モダン・タイムス』(1936)。喜劇のひとつのテーマとして〈わたしの放棄〉というのがあるように思うんです。たとえばチャップリンのこの映画ではシステム主義的な工場の現場で翻弄されるチャップリンがでてくるけれどこれもひとつの〈わたしの放棄〉ですよね。どうしてマルクス兄弟やハロルド・ロイドがデパートを舞台にしたか、どうしてキートンは蒸気機関車に乗るのか。それはシステムに翻弄される〈わたしの放棄〉があったのではないか。
【洗濯機と不穏】
兵庫さんの歌集『七月の心臓』からの一首です。
短歌のなかの〈わたし〉っていろんなありかたがあると思うんですが、歌によって構築される〈わたし〉があると同時に、歌によっては解体されつづける〈わたし〉というものもあると思うんです。
ずっと脱線しつづける、というか、定型は一度パックにしたらもう永劫そのままなので、ずっとその定型のなかで〈わたし〉はずれつづけている。定位できないわたしが洗濯機のなかでまわりつづける服のようにずっとぐるぐるまわっている。
この兵庫さんの歌で、反定位されている〈わたし〉っていうのは、たぶん、〈朝焼けをみて充実しているわたし〉だとおもうんですね。語り手はなんとなくそういう〈わたし〉もあるんだっていうことに気がついている、もしくは気がついてしまった。
そういう充実したわたしが世界にはあるらしい一方で、でも、じぶんは「朝焼けを見たことがない」。そこで過去の履歴をまさぐりはじめている。
でもこれってちょっと不穏なのが。
朝焼けを見たことがないどんなことして生きてきたのだろうわたしは(朝焼けを見たことがないどんなことして生きてきたのだろうわたしは(朝焼けを見たことがないどんなことして生きてきたのだろうわたしは…
とずっと〈わたし〉の同語反復のなかに陥っていきそうな不穏さです。〈わたし〉を「朝焼けを見たことがある/ない」で定位しようとしたしゅんかん、〈わたし〉のトートロジーにおちいってしまう。
これってたぶん、ほんとうは、「朝焼けをみたかどうか」が問われているわけではないんじゃないか、っておもうんですよ。
ほんとうに問われているのは、「朝焼け」といったようなことでふいに解体しそうになってしまう〈わたしの定位のありかた〉なのではないかとおもうんです。
そういう〈わたしの定位の微妙さ〉がこの兵庫さんにはすごくよくあらわれているんじゃないかっておもうんですね。
〈わたし〉をさがしあてることが重要なんじゃなくて、〈わたしのさがしかた〉そのものの定位をまさぐること。それがこの歌が問いかけていることなんじゃないかと、おもう。
敢えて「僕」のさみしさを言う 雪の日にどこかへ向かうレントゲンバス 兵庫ユカ
チャップリン『モダン・タイムス』(1936)。喜劇のひとつのテーマとして〈わたしの放棄〉というのがあるように思うんです。たとえばチャップリンのこの映画ではシステム主義的な工場の現場で翻弄されるチャップリンがでてくるけれどこれもひとつの〈わたしの放棄〉ですよね。どうしてマルクス兄弟やハロルド・ロイドがデパートを舞台にしたか、どうしてキートンは蒸気機関車に乗るのか。それはシステムに翻弄される〈わたしの放棄〉があったのではないか。
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