【感想】tttふいに過ぎゆく子らや秋 鴇田智哉
- 2015/11/07
- 23:07
tttふいに過ぎゆく子らや秋 鴇田智哉
あまり倦みたれば、一ツおりてのぼる坂のくぼみにつくばひし、手のあきたるまま何ならむ指もて土にかきはじめぬ。さといふ字も出来たり。くといふ字も書きたり。 泉鏡花「竜潭譚」
我々の世界はどこが始まりどこが終わりか分からないぎっしりと「書き込まれた」、エクリチュールの構成物である。無数の人によって「書き込み」「書き出された」エクリチュールの共同世界に生きながら我々もせっせと書いている。つまり、我々が存在するとはテキストを書いていることにほかならない。 奥出直人『現代思想』1989・2
今まで自分は、俳句に季語を入れることで、一句に「物足りる」体を付与してきたところがある。でもそんな必要はあるのだろうか、そもそも俳句に「物足りる」という必要はあるのだろうか、ということも含めて考えていきたい。 鴇田智哉
微塵の愛情もなかったし、未練もなかったが、捨てるだけの張合いもなかった。生きるための、明日の希望がないからだった。明日の日に、たとえば女の姿を捨ててみても、どこかの場所に何か希望があるのだろうか。何をたよりに生きるのだろう。どこに住む家があるのだか、眠る穴ぼこがあるのだか、それすらも分りはしなかった。米軍が上陸し、天地にあらゆる破壊が起り、その戦争の破壊の巨大な愛情が、すべてを裁いてくれるだろう。考えることもなくなっていた。 坂口安吾『白痴』
【現代俳句と機動戦士ガンダム】
俳誌『オルガン』3号2015秋からの一句です。
この鴇田さんの「ttt」ってすごくふしぎなことになってますよね。どういうことなんだろうって率直におもうんですよ。
小津夜景さんが以前、鴇田さんの句を〈文字(エクリチュール)〉の観点から論じられていたとおもうんですね。それは、鴇田さんの句が、意味作用というよりも、表記作用の方が強いんじゃないかっていう視点だったんじゃないかとおもうんですね。文字的というか、書式的というか。
で、ちょっとその小津さんの視点を思い出してみると、鴇田さんの句の語り手の〈視野〉っていうのは、〈書式眼〉というか、文字や記号がごっちゃになった世界なんじゃないかとおもうんですよ。
なんていうんでしょう、ふつうひとは風景をみても、数字の7や記号の*はみえてきませんよね。それはデスクでキーをたたいているときに液晶にみえてくる風景であって、風景を翻訳するときも「ああ鳥がとんでいる月がきれいですね誰かいる夕焼けがぶるんと落ちる」というふうに言語で翻訳しているはずです。わたしたちの認識の書式には記号っていうのは入っていないとおもうんですよ。
でも鴇田さんの句の語り手の認識の書式には言語とともに記号も登録されていて、記号で風景を翻訳=翻案しているときがあるんじゃないかっておもうんです。その意味で、〈書式的〉というか、たとえばガンダムであえていうならば、オールドタイプのランバ・ラルは言語で戦場を理解しているんだけれど、ニュータイプのララァ・スンはもう言語で戦場を理解していない、記号的直感で理解している、そういうふうにいえるんじゃないかとおもうんです。
わたしもときどき川柳と記号の関係について考えることがあるんですが(川柳に記号を使っていいのか)、ただ鴇田さんの句をみているうちに思ったのは、問題は使うか使わないかではなくて、問題は、〈もはや風景をそのようにしか翻案できないひとがいる〉ということなのではないかとおもうんです。記号で翻訳するしかない風景があらわれはじめている。それは使うか使わないかではなく、そうみえたかどうかという認識の違いなんじゃないか。たとえばこんな・・・・・・・・・も。
見えてゐる花野に黒い点が殖ゆ 鴇田智哉
・・・・・
・・・・・・・
(十二個の)赤い実だ ブローティガン
富野由悠季『機動戦士ガンダム』(1979)。機動戦士ガンダムを考えるときに大事なのが、1970年代終わり頃からのVHS対ベータの家庭用VTR販売戦なんじゃないかと思うんですよ。つまり、録画できるビデオテープが各家庭に普及することによってそれまで〈一回的〉にしか観られなかった番組を、なんども繰り返し巻き戻し一時停止し〈違った見方〉でみるオーディエンスがあらわれてきた。そういうふうなビデオ的みかたによって、〈解釈〉の仕方そのものが変わってくる。もっといえば、認識の書式そのものが変わってくる。で、ガンダムはそのときちょうどニュータイプと呼ばれる宇宙に出たことで新しい認識をもったひとたちが戦争に利用される様態そのものを描いた。そういう〈認識の戦争〉がガンダムでは描かれていたんじゃないかと。ちなみに1979年には蓮實重彦の『表層批評宣言』もでていて、テクストを読むことの〈謎解き〉が放棄され、むしろどういう〈書式を採用するか〉(=表層)が大事になってくる時代でもあったんですよ。
あまり倦みたれば、一ツおりてのぼる坂のくぼみにつくばひし、手のあきたるまま何ならむ指もて土にかきはじめぬ。さといふ字も出来たり。くといふ字も書きたり。 泉鏡花「竜潭譚」
我々の世界はどこが始まりどこが終わりか分からないぎっしりと「書き込まれた」、エクリチュールの構成物である。無数の人によって「書き込み」「書き出された」エクリチュールの共同世界に生きながら我々もせっせと書いている。つまり、我々が存在するとはテキストを書いていることにほかならない。 奥出直人『現代思想』1989・2
今まで自分は、俳句に季語を入れることで、一句に「物足りる」体を付与してきたところがある。でもそんな必要はあるのだろうか、そもそも俳句に「物足りる」という必要はあるのだろうか、ということも含めて考えていきたい。 鴇田智哉
微塵の愛情もなかったし、未練もなかったが、捨てるだけの張合いもなかった。生きるための、明日の希望がないからだった。明日の日に、たとえば女の姿を捨ててみても、どこかの場所に何か希望があるのだろうか。何をたよりに生きるのだろう。どこに住む家があるのだか、眠る穴ぼこがあるのだか、それすらも分りはしなかった。米軍が上陸し、天地にあらゆる破壊が起り、その戦争の破壊の巨大な愛情が、すべてを裁いてくれるだろう。考えることもなくなっていた。 坂口安吾『白痴』
【現代俳句と機動戦士ガンダム】
俳誌『オルガン』3号2015秋からの一句です。
この鴇田さんの「ttt」ってすごくふしぎなことになってますよね。どういうことなんだろうって率直におもうんですよ。
小津夜景さんが以前、鴇田さんの句を〈文字(エクリチュール)〉の観点から論じられていたとおもうんですね。それは、鴇田さんの句が、意味作用というよりも、表記作用の方が強いんじゃないかっていう視点だったんじゃないかとおもうんですね。文字的というか、書式的というか。
で、ちょっとその小津さんの視点を思い出してみると、鴇田さんの句の語り手の〈視野〉っていうのは、〈書式眼〉というか、文字や記号がごっちゃになった世界なんじゃないかとおもうんですよ。
なんていうんでしょう、ふつうひとは風景をみても、数字の7や記号の*はみえてきませんよね。それはデスクでキーをたたいているときに液晶にみえてくる風景であって、風景を翻訳するときも「ああ鳥がとんでいる月がきれいですね誰かいる夕焼けがぶるんと落ちる」というふうに言語で翻訳しているはずです。わたしたちの認識の書式には記号っていうのは入っていないとおもうんですよ。
でも鴇田さんの句の語り手の認識の書式には言語とともに記号も登録されていて、記号で風景を翻訳=翻案しているときがあるんじゃないかっておもうんです。その意味で、〈書式的〉というか、たとえばガンダムであえていうならば、オールドタイプのランバ・ラルは言語で戦場を理解しているんだけれど、ニュータイプのララァ・スンはもう言語で戦場を理解していない、記号的直感で理解している、そういうふうにいえるんじゃないかとおもうんです。
わたしもときどき川柳と記号の関係について考えることがあるんですが(川柳に記号を使っていいのか)、ただ鴇田さんの句をみているうちに思ったのは、問題は使うか使わないかではなくて、問題は、〈もはや風景をそのようにしか翻案できないひとがいる〉ということなのではないかとおもうんです。記号で翻訳するしかない風景があらわれはじめている。それは使うか使わないかではなく、そうみえたかどうかという認識の違いなんじゃないか。たとえばこんな・・・・・・・・・も。
見えてゐる花野に黒い点が殖ゆ 鴇田智哉
・・・・・
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(十二個の)赤い実だ ブローティガン
富野由悠季『機動戦士ガンダム』(1979)。機動戦士ガンダムを考えるときに大事なのが、1970年代終わり頃からのVHS対ベータの家庭用VTR販売戦なんじゃないかと思うんですよ。つまり、録画できるビデオテープが各家庭に普及することによってそれまで〈一回的〉にしか観られなかった番組を、なんども繰り返し巻き戻し一時停止し〈違った見方〉でみるオーディエンスがあらわれてきた。そういうふうなビデオ的みかたによって、〈解釈〉の仕方そのものが変わってくる。もっといえば、認識の書式そのものが変わってくる。で、ガンダムはそのときちょうどニュータイプと呼ばれる宇宙に出たことで新しい認識をもったひとたちが戦争に利用される様態そのものを描いた。そういう〈認識の戦争〉がガンダムでは描かれていたんじゃないかと。ちなみに1979年には蓮實重彦の『表層批評宣言』もでていて、テクストを読むことの〈謎解き〉が放棄され、むしろどういう〈書式を採用するか〉(=表層)が大事になってくる時代でもあったんですよ。
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