【感想】緑でも赤でも黄色でも茶色でも青でも黒でもない鬼 伊舎堂仁
- 2015/11/08
- 00:30
緑でも赤でも黄色でも茶色でも青でも黒でもない鬼 伊舎堂仁
赤く青く黄いろく黒く戦死せり 渡邊白泉
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、きらきらとラインマーカーまみれの聖書 穂村弘
本書の『赤光』といふ名は仏説阿弥陀経から採ったである、書くまでもなく彼経には『池中蓮華大如車輪青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光微妙香潔』といふ甚だ音調の佳い所がある。 斎藤茂吉『赤光』
【色・戦争・資本主義】
色って、こわいですよね。分節が問われてしまうので。
たとえば、虹の七色は日本では7つに分節するんだけれども、たとえばあるアフリカの部族ではたったの2つだったりもする。
そうすると、色ってなにかっていうと、そこに線はないにもかかわらず、線を引くことなんですよ。
ところが、伊舎堂さんの歌って、否定語法でえんえんと色を否定しながら、ついに一本の線もひかずに、「鬼」として終わる。
ここでの「鬼」ってなにかっていうとそういう境界をあんいに引くことのできない〈なにか〉なんじゃないかとおもうんですよ。
で、逆にです。たとえば、白泉は、戦死した死体にカラーの境界線をどんどん引いていく。かってに境界が書き込まれていく身体を描いている。赤の、青の、黄色の、黒の線が非主体的に戦争によって引かれていく。そうした無数の境界がかってに身体にリアルでも象徴でも想像でも引かれることが戦争だといっている。
穂村さんになるとそうした境界は、資本主義のサイケデリックなネオンと宗教が結びついたものとしてあらわれるかもしれない。聖書は、きらびやかな〈商品〉としてあらわれてくる。しかも「ラインマーカー」という線を引くことによってみずからの体系(システム)に換骨奪胎できるような置換可能なシステムとしての〈商品化しやすい宗教〉。
そういう色の境界/非境界があらわれてくる歌や句なんじゃないかとおもうんですよ。色は境界だから、色によって誰を殺してきたかもわかる。
あなただれを殺してきたのひまわりの花粉まみれの青いジーンズ 兵庫ユカ
フレミング『オズの魔法使』(1939)。ドロシーがカンザスの現実世界にいるときはモノクロ画面になっていて、ドロシーが竜巻で魔法のオズの国にとばされるとカラーになる色の境界映画。で、ちょっと不思議なのがエメラルドシティは緑色なんだけれども、水をかけられて殺される悪い魔女も皮膚は緑色でした。だからこの映画のなかで緑色っていうのは幸福や平等の象徴であると同時に、悪や差別の色にもなっている。そういうふたつの緑を行き来しながら、最終的にモノクロの世界に帰ってきたドロシーは「家ほどすばらしいものはない」と歌う。つまり、色の世界、差異の世界を放棄して、差異のない世界のすばらしさを歌ってしまう映画なんじゃないかともおもうんですよ。差異がないようにみえてふたつの緑のように差異はあったはずなのに。
赤く青く黄いろく黒く戦死せり 渡邊白泉
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、きらきらとラインマーカーまみれの聖書 穂村弘
本書の『赤光』といふ名は仏説阿弥陀経から採ったである、書くまでもなく彼経には『池中蓮華大如車輪青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光微妙香潔』といふ甚だ音調の佳い所がある。 斎藤茂吉『赤光』
【色・戦争・資本主義】
色って、こわいですよね。分節が問われてしまうので。
たとえば、虹の七色は日本では7つに分節するんだけれども、たとえばあるアフリカの部族ではたったの2つだったりもする。
そうすると、色ってなにかっていうと、そこに線はないにもかかわらず、線を引くことなんですよ。
ところが、伊舎堂さんの歌って、否定語法でえんえんと色を否定しながら、ついに一本の線もひかずに、「鬼」として終わる。
ここでの「鬼」ってなにかっていうとそういう境界をあんいに引くことのできない〈なにか〉なんじゃないかとおもうんですよ。
で、逆にです。たとえば、白泉は、戦死した死体にカラーの境界線をどんどん引いていく。かってに境界が書き込まれていく身体を描いている。赤の、青の、黄色の、黒の線が非主体的に戦争によって引かれていく。そうした無数の境界がかってに身体にリアルでも象徴でも想像でも引かれることが戦争だといっている。
穂村さんになるとそうした境界は、資本主義のサイケデリックなネオンと宗教が結びついたものとしてあらわれるかもしれない。聖書は、きらびやかな〈商品〉としてあらわれてくる。しかも「ラインマーカー」という線を引くことによってみずからの体系(システム)に換骨奪胎できるような置換可能なシステムとしての〈商品化しやすい宗教〉。
そういう色の境界/非境界があらわれてくる歌や句なんじゃないかとおもうんですよ。色は境界だから、色によって誰を殺してきたかもわかる。
あなただれを殺してきたのひまわりの花粉まみれの青いジーンズ 兵庫ユカ
フレミング『オズの魔法使』(1939)。ドロシーがカンザスの現実世界にいるときはモノクロ画面になっていて、ドロシーが竜巻で魔法のオズの国にとばされるとカラーになる色の境界映画。で、ちょっと不思議なのがエメラルドシティは緑色なんだけれども、水をかけられて殺される悪い魔女も皮膚は緑色でした。だからこの映画のなかで緑色っていうのは幸福や平等の象徴であると同時に、悪や差別の色にもなっている。そういうふたつの緑を行き来しながら、最終的にモノクロの世界に帰ってきたドロシーは「家ほどすばらしいものはない」と歌う。つまり、色の世界、差異の世界を放棄して、差異のない世界のすばらしさを歌ってしまう映画なんじゃないかともおもうんですよ。差異がないようにみえてふたつの緑のように差異はあったはずなのに。
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