【感想】短歌/川柳/俳句の《嘔吐》をめぐって-あなたにはできない-
- 2015/11/09
- 12:00
身体から砂吐く月のあかるさに 石部明
雑踏のひとり振り向き滝を吐く 〃
黄昏の体かがんで蝶を吐く 〃
たぶん今ニトリに行ったら吐く 風が動いて他人を抱く他人は 北山あさひ
新人賞関連ツイート吐きそうだ窓を開け風に顔をつっこむ 〃
美少女の嘔吐がほしいな 裏悪水
きついエレベーター嘔吐のさようならたち 島津亮
「吐き気」は、人間の知覚システムのなかで、もっとも強烈な情動の一つである。吐き気を初めて理論化した一人であるカントは、吐き気を「強烈な生命感覚」と呼んだ。……吐き気とは、非常事態にして例外状態であり、同化しえない異他的なものにたいする自己防衛の切迫した危機であり、文字どおりの意味で生きるか死ぬかに関わる痙攣にして闘争である。まさにそのことが吐き気という問題に関して、「からだによいもの」と享楽不可能なもの、受け入れることと拒絶すること(嘔吐、近くから遠ざけること)とが、独特の真面目さでもって区別されることの要因をなしている。 メニングハウス『吐き気 ある強烈な感覚の理論と歴史』
【嘔吐って、なんだろう】
ちょっと考えてみたかったことに〈嘔吐〉があって、たとえばマンガなんかでも漫画太郎さんの一連の漫画や、安野モヨコさんの『脂肪という名の服を着て』でも〈嘔吐〉がそれぞれに特有のかたちで表現されています。
〈嘔吐〉について考察したメニングハウスを、嘔吐っていうのは〈闘争〉なんだといっています。それは〈たたかい〉なんだと。
で、なんで〈たたかい〉になるかっていうと、それはじぶんがこれから生きていこうとすることの〈識別〉や〈閾値〉として働いているからじゃないかとおもうんですよね。
たとえば石部さんの句は「雑踏」を振り向いて吐いているから、えたいのしれない「雑踏」としての全体主義への嫌悪感として身体が反応している。北山さんの「新人賞関連ツイート」もそうしたえたいのしれない全体的な意向への異和や緊張として語り手の身体が吐き気をもよおしているのではないかとおもうんですよ(もちろん語り手たちがどちらにいるかはわからないんです。こっちにいての異和かあっちにいての異和かはわからない。全体的な流れのなかにもう自分がいての吐き気かもしれない。でも身体がたたかうために反応しているということです)。
で、もっといえばそれは言語化も知覚もできないなにかということになるんじゃないかと思うんですよ。言葉にできなかったなにかというか。それでも身体が出力しようとしたことのあらわれ。
つまり、言葉にしてしまうと、けっきょく意向や全体に回収されてしまうことになってしまう。でも、〈吐瀉物〉はだれのものにもならないんですよ。それは言葉ではないから、だれも解釈はできない。吐瀉物に、意味や解釈はない。だから吐瀉物っていつまでも言葉や解釈に拮抗した固有のものとしてある。もちろん、それは自分にとってもそうなんですよ。自分でもなんで嘔吐しているのかわけがわからない。この意味はなんだろうっておもう。でも意味なんてない。自分が自分でさえわからない。そういうわからない閾値にとどまりつづけるもの。しかも自分の体内からでた自分に固有のなにか。それが、吐瀉物や嘔吐なのではないかとおもうんですよ。
だから、いつだってわたしたちは嘔吐するたびに、《学び直している》のではないかとおもうのです。
定式──《われ吐き気を感ず、ゆえにわれ認識す》──は、ニーチェのすべての著作のなかに、さまざまなかたちで反響している。「われわれは吐き気を学び直す」 メニングハウス『吐き気』
矢口史靖『ひみつの花園』(1997)。矢口映画でいつも特権化されているのが〈嘔吐〉なんではないかと思うんですね。この映画では主演の西田尚美も嘔吐したり利重剛も牛乳を噴き出したり、また泡をふいて倒れたりするひともでてくるけれど、問題は、〈吐き出す〉ことによっていまある現状そのものに〈発作的〉に気がついてしまうことなのではないかとおもうんですよ。つまり、知覚するよりもはやく身体がきづいてしまう。あるいは本人が気がついていないのに、むしろ身体のほうがきがついてしまう。それが〈嘔吐〉なのではないか。
雑踏のひとり振り向き滝を吐く 〃
黄昏の体かがんで蝶を吐く 〃
たぶん今ニトリに行ったら吐く 風が動いて他人を抱く他人は 北山あさひ
新人賞関連ツイート吐きそうだ窓を開け風に顔をつっこむ 〃
美少女の嘔吐がほしいな 裏悪水
きついエレベーター嘔吐のさようならたち 島津亮
「吐き気」は、人間の知覚システムのなかで、もっとも強烈な情動の一つである。吐き気を初めて理論化した一人であるカントは、吐き気を「強烈な生命感覚」と呼んだ。……吐き気とは、非常事態にして例外状態であり、同化しえない異他的なものにたいする自己防衛の切迫した危機であり、文字どおりの意味で生きるか死ぬかに関わる痙攣にして闘争である。まさにそのことが吐き気という問題に関して、「からだによいもの」と享楽不可能なもの、受け入れることと拒絶すること(嘔吐、近くから遠ざけること)とが、独特の真面目さでもって区別されることの要因をなしている。 メニングハウス『吐き気 ある強烈な感覚の理論と歴史』
【嘔吐って、なんだろう】
ちょっと考えてみたかったことに〈嘔吐〉があって、たとえばマンガなんかでも漫画太郎さんの一連の漫画や、安野モヨコさんの『脂肪という名の服を着て』でも〈嘔吐〉がそれぞれに特有のかたちで表現されています。
〈嘔吐〉について考察したメニングハウスを、嘔吐っていうのは〈闘争〉なんだといっています。それは〈たたかい〉なんだと。
で、なんで〈たたかい〉になるかっていうと、それはじぶんがこれから生きていこうとすることの〈識別〉や〈閾値〉として働いているからじゃないかとおもうんですよね。
たとえば石部さんの句は「雑踏」を振り向いて吐いているから、えたいのしれない「雑踏」としての全体主義への嫌悪感として身体が反応している。北山さんの「新人賞関連ツイート」もそうしたえたいのしれない全体的な意向への異和や緊張として語り手の身体が吐き気をもよおしているのではないかとおもうんですよ(もちろん語り手たちがどちらにいるかはわからないんです。こっちにいての異和かあっちにいての異和かはわからない。全体的な流れのなかにもう自分がいての吐き気かもしれない。でも身体がたたかうために反応しているということです)。
で、もっといえばそれは言語化も知覚もできないなにかということになるんじゃないかと思うんですよ。言葉にできなかったなにかというか。それでも身体が出力しようとしたことのあらわれ。
つまり、言葉にしてしまうと、けっきょく意向や全体に回収されてしまうことになってしまう。でも、〈吐瀉物〉はだれのものにもならないんですよ。それは言葉ではないから、だれも解釈はできない。吐瀉物に、意味や解釈はない。だから吐瀉物っていつまでも言葉や解釈に拮抗した固有のものとしてある。もちろん、それは自分にとってもそうなんですよ。自分でもなんで嘔吐しているのかわけがわからない。この意味はなんだろうっておもう。でも意味なんてない。自分が自分でさえわからない。そういうわからない閾値にとどまりつづけるもの。しかも自分の体内からでた自分に固有のなにか。それが、吐瀉物や嘔吐なのではないかとおもうんですよ。
だから、いつだってわたしたちは嘔吐するたびに、《学び直している》のではないかとおもうのです。
定式──《われ吐き気を感ず、ゆえにわれ認識す》──は、ニーチェのすべての著作のなかに、さまざまなかたちで反響している。「われわれは吐き気を学び直す」 メニングハウス『吐き気』
矢口史靖『ひみつの花園』(1997)。矢口映画でいつも特権化されているのが〈嘔吐〉なんではないかと思うんですね。この映画では主演の西田尚美も嘔吐したり利重剛も牛乳を噴き出したり、また泡をふいて倒れたりするひともでてくるけれど、問題は、〈吐き出す〉ことによっていまある現状そのものに〈発作的〉に気がついてしまうことなのではないかとおもうんですよ。つまり、知覚するよりもはやく身体がきづいてしまう。あるいは本人が気がついていないのに、むしろ身体のほうがきがついてしまう。それが〈嘔吐〉なのではないか。
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の短詩型まとめ