【感想】面白くかなしく遠く涅槃かな 岸本尚毅
- 2015/11/10
- 00:00
面白くかなしく遠く涅槃かな 岸本尚毅
岸本さんのリフレインの俳句が決定的な形になったのは『感謝』の「面白くかなしく遠く涅槃かな」ではないかと思います。 生駒大祐「岸本尚毅の『小』を読んでみた」『オルガン』3号
【Tha Man Who Wasn't There】
さいきん考えていたのが、短詩のなかの〈長さ〉ってなんだろうっていうことで、で、この岸本さんの句にひとつの〈ながさ〉のようなものがあらわれているんじゃないかとおもうんです。
この『オルガン』3号では、岸本尚毅さんの句集を〈読む〉という鼎談がのっているんですが、そのひとつのトピックとして岸本さんの俳句をめぐる〈リフレイン〉について話し合われているんですね。「同じ言葉の並列、形容詞の並列、名詞の並列。」と鴇田智哉さんが話されているんですが、たとえば上の岸本さんの句を「涅槃」を悟りの境地と取ってみると、それがたとえ「面白く」なくても、「かなしく」なくても「遠く」なくても、とりあえず「涅槃かな」という下五にたどりつくまでにえんえんと長かったことがわかる。いろんなプロセスをへてやっとここまできたかんじがする。
宮本佳世乃さんが岸本さんの俳句の〈立体感〉を指摘されていたんだけれども、たとえばこの句なら紆余曲折としての立体感がある。俳句のなかにあるロングロングジャーニーみたいなかんじで「涅槃」がでているのかなっておもうんです。
で、「かな」という切れ字で終わっているので、またそこからがずーっと続く感じもするんですよね。「涅槃」にはたどりついたけれど、そこからさらに先があるだろうという、十牛図なら牛をつかまえたあとのまったくなんにも描かれていない○の「人牛倶忘」のような、そういう〈先〉のある長さもある。
そういう短詩のなかの〈長さ〉というものがあるのではないか。
先生は杖で頭を三つたたいていう、「おまえはそうして出てゆくことはできたが、同じようにやってくることはできまい」 『洞山録』
あたたかにしづかにつよし夏の雨 岸本尚毅
呼ぶための呟くための唄うための嘯くための声の屈折 佐々木遙
『十牛図』。禅の悟りの過程を牛で描いたもの。牛をやっとつかまえたと思ったのに、八番目の絵には、なにも描かれていない。つまり、つかまえた、とおもったしゅんかん、つかまえられていない、ことになるのである。だからといって、つかまえない、なら、つかまえないことになる。問われているのは、つかまえる/つかまえないの「/」を消して、かんぺきななんにもない○の境地にたてるかどうかということになる。だからといって、たった、とおもったしゅんかん、また、たっていないとうことになる。やだな
岸本さんのリフレインの俳句が決定的な形になったのは『感謝』の「面白くかなしく遠く涅槃かな」ではないかと思います。 生駒大祐「岸本尚毅の『小』を読んでみた」『オルガン』3号
【Tha Man Who Wasn't There】
さいきん考えていたのが、短詩のなかの〈長さ〉ってなんだろうっていうことで、で、この岸本さんの句にひとつの〈ながさ〉のようなものがあらわれているんじゃないかとおもうんです。
この『オルガン』3号では、岸本尚毅さんの句集を〈読む〉という鼎談がのっているんですが、そのひとつのトピックとして岸本さんの俳句をめぐる〈リフレイン〉について話し合われているんですね。「同じ言葉の並列、形容詞の並列、名詞の並列。」と鴇田智哉さんが話されているんですが、たとえば上の岸本さんの句を「涅槃」を悟りの境地と取ってみると、それがたとえ「面白く」なくても、「かなしく」なくても「遠く」なくても、とりあえず「涅槃かな」という下五にたどりつくまでにえんえんと長かったことがわかる。いろんなプロセスをへてやっとここまできたかんじがする。
宮本佳世乃さんが岸本さんの俳句の〈立体感〉を指摘されていたんだけれども、たとえばこの句なら紆余曲折としての立体感がある。俳句のなかにあるロングロングジャーニーみたいなかんじで「涅槃」がでているのかなっておもうんです。
で、「かな」という切れ字で終わっているので、またそこからがずーっと続く感じもするんですよね。「涅槃」にはたどりついたけれど、そこからさらに先があるだろうという、十牛図なら牛をつかまえたあとのまったくなんにも描かれていない○の「人牛倶忘」のような、そういう〈先〉のある長さもある。
そういう短詩のなかの〈長さ〉というものがあるのではないか。
先生は杖で頭を三つたたいていう、「おまえはそうして出てゆくことはできたが、同じようにやってくることはできまい」 『洞山録』
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呼ぶための呟くための唄うための嘯くための声の屈折 佐々木遙
『十牛図』。禅の悟りの過程を牛で描いたもの。牛をやっとつかまえたと思ったのに、八番目の絵には、なにも描かれていない。つまり、つかまえた、とおもったしゅんかん、つかまえられていない、ことになるのである。だからといって、つかまえない、なら、つかまえないことになる。問われているのは、つかまえる/つかまえないの「/」を消して、かんぺきななんにもない○の境地にたてるかどうかということになる。だからといって、たった、とおもったしゅんかん、また、たっていないとうことになる。やだな
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