【感想】おまえの誕生日に得点決められる仕事に生まれ変わったら就く 小坂井大輔
- 2015/11/10
- 08:00
おまえの誕生日に得点決められる仕事に生まれ変わったら就く 小坂井大輔
【サラダと輪廻転生】
きょうの加藤治郎さん選毎日歌壇からの一首です。
短歌のなかの〈生まれ変わり〉ってちょっと独特でおもしろいんですよね。
たとえばこの小坂井さんの歌ですが、「おまえの誕生日に得点決められる仕事」ってすごくピンポイントで感動的ですよね。よく流通されている感動的な〈大きな物語〉なんだけれど、でも、この歌の下の句にあるように、〈この世〉でではないんですよ。それは、こんかいの人生の話ではなかった。来世の話、生まれ変わったら、なんですよ。ここでオーディエンスや読み手はずっこけるわけですよね。ずっこけるわけなんだけれども、でも、わからないのは、実は本気である場合もあるってことでもあるとおもうんですよ。
ふつうに来世を信じていたらそれがありうる。言い訳の歌かもしれないし、本気の歌かもしれない。どっちか、わかんないんですよ。とくに今はアニメや映画にループものが多いから、こういうセリフもふつうにとんでくるじゃないですか。来世がわりとTSUTAYAにいくような感覚でやってくる。
だからそうかんがえると短歌ってどこまで〈本気か〉の線をいつも個々の歌で引かなきゃいけない表現メディアだなあっておもうんですよ。
たとえば以前紹介した山中さんの短歌、
生まれ変わったらたぶんあなたと暮らすけど生まれ変わりはないけど、どうも 山中千瀬
これも〈生まれ変わり〉に対して〈ラフ〉なのが特徴的だとおもうんですよ。どこまでなにが本気なのかわからない。そもそもこの「どうも」という結語によって、そういう線を引くべきかどうかもわからない。
〈生まれ変わり〉の思想にお手頃感というか、ライトなかんじがするのがおもしろいとおもうんですね。
そういうサラダ感覚の輪廻転生とでもいえばいいんでしょうか。ファミレスのサラダバー感覚で生を〈おかわり〉する。たとえば、キリンもこんなことをいう。
天国はみたことあるかい?ゆっくりと口だけ動かす二頭のキリン 服部心子
ライミス『恋はデ・ジャブ』(1993)。ビル・マーレイがなんどもなんども同じ一日をループする映画なんですが、ひとつこの映画がテーマにしたのは、ひとはどれだけループしても〈他者のリアルな死〉はどうしようもないのではないかということだと思うんですよ。その日老衰で死ぬと決まっているひとはどうしようもない。そこがループのエンドとなってリアルに現前してくる。その〈死〉だけは等価交換しようがない(これは落語「死神」にも通じていると思います)。サラダバー感覚のループのなかにも絶対にリアルななにかが露開してくる。それはどんなループものでもそうだとおもうんですよ。そのリアルを〈どこに・どう・どんなかたちで〉もってくるかがいつもループものには問われているきがするんです。たとえば『まどか☆マギカ』みたいに〈わたし=キャラクター=アニメ〉そのものの消滅でもいいんですよ。それは。
【サラダと輪廻転生】
きょうの加藤治郎さん選毎日歌壇からの一首です。
短歌のなかの〈生まれ変わり〉ってちょっと独特でおもしろいんですよね。
たとえばこの小坂井さんの歌ですが、「おまえの誕生日に得点決められる仕事」ってすごくピンポイントで感動的ですよね。よく流通されている感動的な〈大きな物語〉なんだけれど、でも、この歌の下の句にあるように、〈この世〉でではないんですよ。それは、こんかいの人生の話ではなかった。来世の話、生まれ変わったら、なんですよ。ここでオーディエンスや読み手はずっこけるわけですよね。ずっこけるわけなんだけれども、でも、わからないのは、実は本気である場合もあるってことでもあるとおもうんですよ。
ふつうに来世を信じていたらそれがありうる。言い訳の歌かもしれないし、本気の歌かもしれない。どっちか、わかんないんですよ。とくに今はアニメや映画にループものが多いから、こういうセリフもふつうにとんでくるじゃないですか。来世がわりとTSUTAYAにいくような感覚でやってくる。
だからそうかんがえると短歌ってどこまで〈本気か〉の線をいつも個々の歌で引かなきゃいけない表現メディアだなあっておもうんですよ。
たとえば以前紹介した山中さんの短歌、
生まれ変わったらたぶんあなたと暮らすけど生まれ変わりはないけど、どうも 山中千瀬
これも〈生まれ変わり〉に対して〈ラフ〉なのが特徴的だとおもうんですよ。どこまでなにが本気なのかわからない。そもそもこの「どうも」という結語によって、そういう線を引くべきかどうかもわからない。
〈生まれ変わり〉の思想にお手頃感というか、ライトなかんじがするのがおもしろいとおもうんですね。
そういうサラダ感覚の輪廻転生とでもいえばいいんでしょうか。ファミレスのサラダバー感覚で生を〈おかわり〉する。たとえば、キリンもこんなことをいう。
天国はみたことあるかい?ゆっくりと口だけ動かす二頭のキリン 服部心子
ライミス『恋はデ・ジャブ』(1993)。ビル・マーレイがなんどもなんども同じ一日をループする映画なんですが、ひとつこの映画がテーマにしたのは、ひとはどれだけループしても〈他者のリアルな死〉はどうしようもないのではないかということだと思うんですよ。その日老衰で死ぬと決まっているひとはどうしようもない。そこがループのエンドとなってリアルに現前してくる。その〈死〉だけは等価交換しようがない(これは落語「死神」にも通じていると思います)。サラダバー感覚のループのなかにも絶対にリアルななにかが露開してくる。それはどんなループものでもそうだとおもうんですよ。そのリアルを〈どこに・どう・どんなかたちで〉もってくるかがいつもループものには問われているきがするんです。たとえば『まどか☆マギカ』みたいに〈わたし=キャラクター=アニメ〉そのものの消滅でもいいんですよ。それは。
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