【感想】ふと思い出した生きぬいてきた訳を 北野岸柳
- 2014/06/26
- 17:00
ふと思い出した生きぬいてきた訳を 北野岸柳
【定型と、生の技法】
定型っていうのは、575としての形態として働くだけでなく、内面の抑圧意識としても実は働いていることがあるのかな、とかんがえていることがあって、そんなところからすこし上の岸柳さんの句をみてみたいと思います。
「ふと」っていうのは、これといった理由もなくとつぜんたちあがる意識をあらわす副詞です。語り手には「生きぬいてきた訳」がとつぜんみずからに対してたちあがってきたわけです。
つまり、定型を意識の抑圧としてみるならば、そのふだんの抑圧している感情の定型の枠組みを超えて、語り手に「生きぬいてきた訳」がやってきているわけです。
だから、この句にあらわれているのは、感情の定型を破る〈内面の破調〉なんじゃないかとおもうんですね。
でも、その〈内面の破調〉を即座に川柳としての定型に留めようとしているのもまたこの句の語り手の生の所作です。おそらく、〈内面の破調〉を感じたときに、それを受けとめる器として語り手が選んだのが川柳です。
ところが、そうした形式としての定型を選んでなお、きっちりと定型のフォルムをそろえられなかったところにこの句のおもしろさがあるようにおもいます。
つまり、〈内面の破調〉のほうが、まさってしまった。みずからにあふれる「生きぬいてきた訳」が定型をフォルムとしても、抑圧としても、こえてしまった。でも、ふいうちとしての生の理由はそれくらいのパワーがあった。それがこの語り手にとっての「生きぬいてきた訳」のようにもおもうんです。
いくたびもいくたびも生のふいうちにであい、しかしそのたびに定型との葛藤をくぐりぬけ、そこからまたあらたな生をみいだしていくこと。
破調としての死は、たぶん、あらたなサヴァイヴな定型としての転生を呼び寄せるのではないでしょうか。
葬列じゃない転生の行列だ 北野岸柳
【定型と、生の技法】
定型っていうのは、575としての形態として働くだけでなく、内面の抑圧意識としても実は働いていることがあるのかな、とかんがえていることがあって、そんなところからすこし上の岸柳さんの句をみてみたいと思います。
「ふと」っていうのは、これといった理由もなくとつぜんたちあがる意識をあらわす副詞です。語り手には「生きぬいてきた訳」がとつぜんみずからに対してたちあがってきたわけです。
つまり、定型を意識の抑圧としてみるならば、そのふだんの抑圧している感情の定型の枠組みを超えて、語り手に「生きぬいてきた訳」がやってきているわけです。
だから、この句にあらわれているのは、感情の定型を破る〈内面の破調〉なんじゃないかとおもうんですね。
でも、その〈内面の破調〉を即座に川柳としての定型に留めようとしているのもまたこの句の語り手の生の所作です。おそらく、〈内面の破調〉を感じたときに、それを受けとめる器として語り手が選んだのが川柳です。
ところが、そうした形式としての定型を選んでなお、きっちりと定型のフォルムをそろえられなかったところにこの句のおもしろさがあるようにおもいます。
つまり、〈内面の破調〉のほうが、まさってしまった。みずからにあふれる「生きぬいてきた訳」が定型をフォルムとしても、抑圧としても、こえてしまった。でも、ふいうちとしての生の理由はそれくらいのパワーがあった。それがこの語り手にとっての「生きぬいてきた訳」のようにもおもうんです。
いくたびもいくたびも生のふいうちにであい、しかしそのたびに定型との葛藤をくぐりぬけ、そこからまたあらたな生をみいだしていくこと。
破調としての死は、たぶん、あらたなサヴァイヴな定型としての転生を呼び寄せるのではないでしょうか。
葬列じゃない転生の行列だ 北野岸柳
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