【感想】成人の記念に美保は自画像を描く右耳を耳らしく描く 兵庫ユカ
- 2015/11/11
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成人の記念に美保は自画像を描く右耳を耳らしく描く 兵庫ユカ
ぼくは二十歳だった。それが人生でもっともすばらしい年齢だなどと、ぼくはだれにも言わせはしない。
若者にとって何もかもが破滅の危険となる。
ポール・ニザン『アデン・アラビア』
論理は、必ず逆襲できるし、破壊することも可能である。 原口統三『二十歳のエチュード』
【二十歳のエチュード】
兵庫さんの歌集『七月の心臓』からの一首です。
前からちょっと気になっていたことに定型のなかでとつぜんあらわれる〈固有名の不穏さ〉というのがあったんですね。
定型っていうのはとつぜん始まってとつぜん終わるんだけれども、そこにある磁場を有しているはずの固有名がでてきたときになんだか〈不穏〉なかんじがする。
それは、読み手であるこのわたしがそれを読みながらもその磁場から排除されていることのあらわれでもあるんじゃないかとおもうんですよ。
だからたとえばもしこの歌に自分が自分に回帰していくような閉鎖的なシステム性を感じるとしたら、それは「自画像」よりもむしろ「美保」という固有名の強度にあるんじゃないかとおもうんですよ。「美保」のことを読み手は知らない。でも「美保」のことを「美保」は知っている。「美保」のことを語り手は知っている。そうしていま〈じぶん〉で〈じぶん〉を描いている。その磁場のありようが〈二十歳の自画像の強度〉なんじゃないか。
で、この歌でもうひとつ考えてみたいのが歌のさいごの「右耳を耳らしく描く」です。非対称的でアンバランスなんですよ。両耳じゃないから。ここにはちょっとした不均衡かある。自画像を描くというじぶん=じぶん回路のなかで、微妙にその自同律がくずれていくアンバランスがある。
でも、そのアンバランスが〈じぶん〉ではない〈これから〉にひらかれていくんじゃないかっておもうんですよ。「耳らしく」っていうことは、〈普遍的耳〉への志向性ですよね。それは〈二十歳〉や〈美保〉の固有性を捨てることになるかもしれないけれど、でも、これから〈社会〉で生きていくには必要になってくる〈強さ〉なんじゃないかとおもうんです。
縦画で終わる名前で生きてきたあのひとらしいつよがり方で 兵庫ユカ
タルコフスキー『鏡』(1980)。〈母親〉っていうのは〈普遍的〉に出てくるけれど、でもたとえば残忍な母親、放縦な母親、母親から逸脱する母親とか、そういう普遍性ではとらえられない母親というものがいる。そういう〈母親〉のイメージを水や火といった自然の〈鏡〉のなかで反射的に描いていく映画だとおもうんです。タルコフスキーの映画にはお父さんやお母さんがとうとつにしつこく何度もクライマックスとして出てくるんだけれど、でもでてきた瞬間、それは主人公の〈終わり〉を意味してしまう。たすけてくれるお父さんやお母さんじゃなくて、イメージとしてしかあらわれえない、しかもそれは普遍的なイメージからも逃げていくような〈鏡象化〉できない両親がでてくる。母親は、鏡のなかには、おさまらない。
ぼくは二十歳だった。それが人生でもっともすばらしい年齢だなどと、ぼくはだれにも言わせはしない。
若者にとって何もかもが破滅の危険となる。
ポール・ニザン『アデン・アラビア』
論理は、必ず逆襲できるし、破壊することも可能である。 原口統三『二十歳のエチュード』
【二十歳のエチュード】
兵庫さんの歌集『七月の心臓』からの一首です。
前からちょっと気になっていたことに定型のなかでとつぜんあらわれる〈固有名の不穏さ〉というのがあったんですね。
定型っていうのはとつぜん始まってとつぜん終わるんだけれども、そこにある磁場を有しているはずの固有名がでてきたときになんだか〈不穏〉なかんじがする。
それは、読み手であるこのわたしがそれを読みながらもその磁場から排除されていることのあらわれでもあるんじゃないかとおもうんですよ。
だからたとえばもしこの歌に自分が自分に回帰していくような閉鎖的なシステム性を感じるとしたら、それは「自画像」よりもむしろ「美保」という固有名の強度にあるんじゃないかとおもうんですよ。「美保」のことを読み手は知らない。でも「美保」のことを「美保」は知っている。「美保」のことを語り手は知っている。そうしていま〈じぶん〉で〈じぶん〉を描いている。その磁場のありようが〈二十歳の自画像の強度〉なんじゃないか。
で、この歌でもうひとつ考えてみたいのが歌のさいごの「右耳を耳らしく描く」です。非対称的でアンバランスなんですよ。両耳じゃないから。ここにはちょっとした不均衡かある。自画像を描くというじぶん=じぶん回路のなかで、微妙にその自同律がくずれていくアンバランスがある。
でも、そのアンバランスが〈じぶん〉ではない〈これから〉にひらかれていくんじゃないかっておもうんですよ。「耳らしく」っていうことは、〈普遍的耳〉への志向性ですよね。それは〈二十歳〉や〈美保〉の固有性を捨てることになるかもしれないけれど、でも、これから〈社会〉で生きていくには必要になってくる〈強さ〉なんじゃないかとおもうんです。
縦画で終わる名前で生きてきたあのひとらしいつよがり方で 兵庫ユカ
タルコフスキー『鏡』(1980)。〈母親〉っていうのは〈普遍的〉に出てくるけれど、でもたとえば残忍な母親、放縦な母親、母親から逸脱する母親とか、そういう普遍性ではとらえられない母親というものがいる。そういう〈母親〉のイメージを水や火といった自然の〈鏡〉のなかで反射的に描いていく映画だとおもうんです。タルコフスキーの映画にはお父さんやお母さんがとうとつにしつこく何度もクライマックスとして出てくるんだけれど、でもでてきた瞬間、それは主人公の〈終わり〉を意味してしまう。たすけてくれるお父さんやお母さんじゃなくて、イメージとしてしかあらわれえない、しかもそれは普遍的なイメージからも逃げていくような〈鏡象化〉できない両親がでてくる。母親は、鏡のなかには、おさまらない。
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