【ふしぎな川柳 第十三夜】さようならの研究-森中惠美子-
- 2015/11/11
- 00:30
手をふるときれいなさようならになる 森中惠美子
ほとんど祈るような気持で、
「グッド・バイ。」
とささやき、その声が自分でも意外に思ったくらい、いたわるような、あやまるような、優しい、哀調に似たものを帯びていた。 太宰治「グッド・バイ」
【さようならは、事典】
〈さようなら〉ってふしぎだなって思っていて、さよならやお別れって、わりと〈きれい/きれいじゃない〉が問われたりするんですね。
それはたぶん〈離れることの美学〉でもあるんだけれど、でも、その〈さようならのカタチ〉がいつも問われるっていうことは、それだけさまざまなカタチがさようならのときにはあらわれるっていうことでもあります。
たとえば、おじぎをして別れたのかとか、握手してわかれたのか、無言でわかれたのか、わかれたあとすぐけつまずいて鼻からころんだのか、あるいはすこしハグしたあとで別れたのか、もしくはごにょごにょいったあと別れようとしたら、「はい?」とききかえされたのか、いろんなさようならがあるとおもうんですよ。
で、なんでそんなに〈さようなら〉が問われるのかっていうと、たぶんなんですけど、〈これから〉が問われるからですよね。その〈さようなら〉の仕方によって、これからの関係性がその一瞬に問われている。だから、さようならのカタチって大事になってくる。
で、ですね。ちょっと目線を変えて。辞世の句ってありますよね、死ぬときにとつぜん歌や句をよんだりするという、それまでなんにもよまなかったりしても、とつぜんよんだりすることがある。
それっていうのも、やっぱり形式の美学が問われているんじゃないかとおもうんです。つまり、内容はどうでもいいんです。辞世の句の。問題は、形式だとおもうんです。定型によって必要以上のことをいわないようにすること。そうした形式による言語の切り詰めが大事だとおもうんですよ。だからひとは辞世の句をのこすのではないか。ミステリーでもダイイングメッセージがあるけれど、あれもひとつの定型にもとづいたさようならだと思うんです。その定型からさまざまな解釈をする。そうすることで、生の痕跡がのこっていく。
だから、さようならするときは森中さんの句のように、てをふって無言でいればいいんじゃないかとおもうんですね。ごにょごにょいいだしたらだめですよね。たとえば、「いや、ええと、あの、あのときのことなんだけれど、いまかんがえてみると、たしかにね、じぶんのほうが、」とかいいだしたら、だめなんですよ、やっぱり。
むかし、さよならするときくらいはもっと笑顔で、と注意されたことも、ある。
さやうならそしてさよなら葛の花 宮本佳世乃
フェリーニ『8 1/2』(1963)。太宰治の「グッド・バイ」はいろんな女のひととお別れをいっていく物語ですが、フェリーニのこの映画はひとりの女のひととも別れられず、別れられないままにその女のひとたちを苦悩の現場に集め、〈お祭り〉にしてしまう映画だとおもうんですよね。表現が入り乱れて複雑なのでわかりにくいんですが、でも内容としては男のエゴを〈表現〉を口実に〈暴力的〉に押し切ってしまう映画だとおもうんです。映画としてすごくおもしろいしどのシーンもすばらしいしすごく好きなんだけれど(百回以上はみた)、でもなにかそうした〈偏差〉を巧妙に隠しもってる〈危うさ〉をもった映画なんじゃないかとおもうんです。そう、〈お別れ〉には偏差がある
ほとんど祈るような気持で、
「グッド・バイ。」
とささやき、その声が自分でも意外に思ったくらい、いたわるような、あやまるような、優しい、哀調に似たものを帯びていた。 太宰治「グッド・バイ」
【さようならは、事典】
〈さようなら〉ってふしぎだなって思っていて、さよならやお別れって、わりと〈きれい/きれいじゃない〉が問われたりするんですね。
それはたぶん〈離れることの美学〉でもあるんだけれど、でも、その〈さようならのカタチ〉がいつも問われるっていうことは、それだけさまざまなカタチがさようならのときにはあらわれるっていうことでもあります。
たとえば、おじぎをして別れたのかとか、握手してわかれたのか、無言でわかれたのか、わかれたあとすぐけつまずいて鼻からころんだのか、あるいはすこしハグしたあとで別れたのか、もしくはごにょごにょいったあと別れようとしたら、「はい?」とききかえされたのか、いろんなさようならがあるとおもうんですよ。
で、なんでそんなに〈さようなら〉が問われるのかっていうと、たぶんなんですけど、〈これから〉が問われるからですよね。その〈さようなら〉の仕方によって、これからの関係性がその一瞬に問われている。だから、さようならのカタチって大事になってくる。
で、ですね。ちょっと目線を変えて。辞世の句ってありますよね、死ぬときにとつぜん歌や句をよんだりするという、それまでなんにもよまなかったりしても、とつぜんよんだりすることがある。
それっていうのも、やっぱり形式の美学が問われているんじゃないかとおもうんです。つまり、内容はどうでもいいんです。辞世の句の。問題は、形式だとおもうんです。定型によって必要以上のことをいわないようにすること。そうした形式による言語の切り詰めが大事だとおもうんですよ。だからひとは辞世の句をのこすのではないか。ミステリーでもダイイングメッセージがあるけれど、あれもひとつの定型にもとづいたさようならだと思うんです。その定型からさまざまな解釈をする。そうすることで、生の痕跡がのこっていく。
だから、さようならするときは森中さんの句のように、てをふって無言でいればいいんじゃないかとおもうんですね。ごにょごにょいいだしたらだめですよね。たとえば、「いや、ええと、あの、あのときのことなんだけれど、いまかんがえてみると、たしかにね、じぶんのほうが、」とかいいだしたら、だめなんですよ、やっぱり。
むかし、さよならするときくらいはもっと笑顔で、と注意されたことも、ある。
さやうならそしてさよなら葛の花 宮本佳世乃
フェリーニ『8 1/2』(1963)。太宰治の「グッド・バイ」はいろんな女のひととお別れをいっていく物語ですが、フェリーニのこの映画はひとりの女のひととも別れられず、別れられないままにその女のひとたちを苦悩の現場に集め、〈お祭り〉にしてしまう映画だとおもうんですよね。表現が入り乱れて複雑なのでわかりにくいんですが、でも内容としては男のエゴを〈表現〉を口実に〈暴力的〉に押し切ってしまう映画だとおもうんです。映画としてすごくおもしろいしどのシーンもすばらしいしすごく好きなんだけれど(百回以上はみた)、でもなにかそうした〈偏差〉を巧妙に隠しもってる〈危うさ〉をもった映画なんじゃないかとおもうんです。そう、〈お別れ〉には偏差がある
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