【ふしぎな川柳 第十四夜】 産もうかな-時実新子-
- 2015/11/11
- 22:46
菜の花菜の花子供でも産もうかな 時実新子
おとなにはなつてしまつてそのあとのひりひりながい産まないをんな 本多響乃
宗助は流産した御米の蒼い顔を眺めて、これもつまりは世帯の苦労から起るんだと判じた。そうして愛情の結果が、貧のために打ち崩されて、永く手のうちに捕える事のできなくなったのを残念がった。御米はひたすら泣いた。 夏目漱石『門』
産まれるという出来事の中に、正体不明の絶縁体があるということ。親子の愛をも絶縁していく、生殖(妊娠・出産)という過程そのものに孕まれたアパシー。それを受け止めきれないことが、宮崎アニメの世界に、そしてナウシカの人生に、大いなる断層を走らせていった。ナウシカは母の愛に向き合えず、死んだ子どもたちに向き合えず、何より、自分を愛せなくなった。 杉田俊介『宮崎駿論』
フーコーによれば、近代以前には同性愛行為をする人間はいたけれど同性愛者というカテゴリーの人間はいなかった。つまり、かつては同性愛行為をするのが特別な人間であるという考え方は、少なくとも言説のレベルではなかった。ところが、近代になってそういう人間を異常と見なすようになるのです。異常と見なすことによって、その反対項として「まともな主体性」というものを「つくり出し」ていく。つまり、異常ではない人間、まともな人間というものはどういう主体なのかということをイメージするわけです。同性愛者が多ければ、人口の再生産ができなくなり、労働力が減少してしまう。であれば、異性愛によって核家族を形成し維持していく方が良いだろう。同性愛の排除が行われるのと並行して、家族愛を当たり前のものとみなし、家族は守るべきものであり、子供は人間の本性として育てるべきだという、そういう言説がつくり出されるのです。父親が外に働きに行って、主婦が家を守るというジェンダー的機能分化が当たり前であるとされる。 仲正昌樹「虚構としての〈自由な主体〉」『談100号記念選集』
【〈産もうかな〉というアイデンティティ】
よくこの本多さんの短歌を思い出しているんですが、社会から「をんな」であることを要請されたときに、強制的に「産む/産まない」身体の枠組みを押しつけられるんじゃないかとおもうんですね。「おとなにはなつてしまつ」たあとに。
で、本多さんの短歌では、語り手がその社会から強要される枠組みに敏感に反応しているから「ひりひり」している。しかもそれは「なが」さとしての「ひりひり」でくる。
じゃあ、〈産むをんな〉なら、その「ひりひり」はないかというと、たぶん、産んだら産んだでそのあと〈妊婦〉としてまた社会の場のなかで、労働の場のなかで強要される枠組みがくる。その〈ながさ〉もあるとおもう。
でもそのまえに「おとな」になってしまえば、たえず〈産む身体/産まない身体〉という身体の政治学にさらされてしまう。そういう枠組みをうたった短歌だとおもうんですよね。「ひりひり」という痛痒として続く言語化できない身体感覚として。身体につづく異和感が社会への抵抗になっている。痛みって、抵抗なんですよ。
で、時実さんの句も位相はちがうんだけれど、本多さんの歌と響きあっているんじゃないかとおもうんです。
「子供でも産もうかな」と「~でも~ようかな」構文で、〈こどもを産まなければならない〉という枠組みを選択事項的にずらしている。次のしゅんかん、あ、やっぱりやめようかな、と思うかもしれないわけです。「~でも」は、「~を」とはちがうオプショナルな言辞だから。しかも「菜の花菜の花」と童謡のようにリフレインすることによってそこに〈軽み〉をだしている。真剣に語るか、歌うように語るか、といった語りの選択もここでは〈自由〉だということです。産む身体/産まない身体/産めない身体について語るときに、語りの枠組みも強制されなければならないのかという問題もここにはある。
だから、アイデンティティを、あえて、散らかす。
アイデンティティをあえて散らかしながら、それとはちがうかたちのアイデンティティを、まさぐる。
少年のこゑは大人の声優がしかもをんなの声優が出す 本多響乃
宮崎駿『風の谷のナウシカ』(1984)。『ナウシカ』って〈お母さんの不在〉によって成り立っている世界なんじゃないかと思うんですね。たとえば、ナウシカは爺たちの/王蟲の/巨神兵の/クシャナの〈お母さん〉になってあげるんだけれども、でもかれらを〈産んだ〉わけではない。ナウシカもまるで世界にとつぜんある日気がつけばそこに〈いた〉かのように〈お母さん〉とのつながりがぜんぜんない。あの有名なランランララランランランのシーンで、無表情なお母さんがちらっとうつるだけです。娘がいちばん苦しい思いをしているときに母親は無表情でいる。ナウシカの世界っていうのは、〈産む/産まれる〉絆じゃない場所で、〈連帯〉が成立していく物語なんじゃないかっておもうんです。しかもその〈連帯〉が無私の〈奉仕〉や〈犠牲〉によって成立している。そしてわたしの死によって〈他人〉がじぶんの子として産まれていく。そういう世界なんじゃないかと。
おとなにはなつてしまつてそのあとのひりひりながい産まないをんな 本多響乃
宗助は流産した御米の蒼い顔を眺めて、これもつまりは世帯の苦労から起るんだと判じた。そうして愛情の結果が、貧のために打ち崩されて、永く手のうちに捕える事のできなくなったのを残念がった。御米はひたすら泣いた。 夏目漱石『門』
産まれるという出来事の中に、正体不明の絶縁体があるということ。親子の愛をも絶縁していく、生殖(妊娠・出産)という過程そのものに孕まれたアパシー。それを受け止めきれないことが、宮崎アニメの世界に、そしてナウシカの人生に、大いなる断層を走らせていった。ナウシカは母の愛に向き合えず、死んだ子どもたちに向き合えず、何より、自分を愛せなくなった。 杉田俊介『宮崎駿論』
フーコーによれば、近代以前には同性愛行為をする人間はいたけれど同性愛者というカテゴリーの人間はいなかった。つまり、かつては同性愛行為をするのが特別な人間であるという考え方は、少なくとも言説のレベルではなかった。ところが、近代になってそういう人間を異常と見なすようになるのです。異常と見なすことによって、その反対項として「まともな主体性」というものを「つくり出し」ていく。つまり、異常ではない人間、まともな人間というものはどういう主体なのかということをイメージするわけです。同性愛者が多ければ、人口の再生産ができなくなり、労働力が減少してしまう。であれば、異性愛によって核家族を形成し維持していく方が良いだろう。同性愛の排除が行われるのと並行して、家族愛を当たり前のものとみなし、家族は守るべきものであり、子供は人間の本性として育てるべきだという、そういう言説がつくり出されるのです。父親が外に働きに行って、主婦が家を守るというジェンダー的機能分化が当たり前であるとされる。 仲正昌樹「虚構としての〈自由な主体〉」『談100号記念選集』
【〈産もうかな〉というアイデンティティ】
よくこの本多さんの短歌を思い出しているんですが、社会から「をんな」であることを要請されたときに、強制的に「産む/産まない」身体の枠組みを押しつけられるんじゃないかとおもうんですね。「おとなにはなつてしまつ」たあとに。
で、本多さんの短歌では、語り手がその社会から強要される枠組みに敏感に反応しているから「ひりひり」している。しかもそれは「なが」さとしての「ひりひり」でくる。
じゃあ、〈産むをんな〉なら、その「ひりひり」はないかというと、たぶん、産んだら産んだでそのあと〈妊婦〉としてまた社会の場のなかで、労働の場のなかで強要される枠組みがくる。その〈ながさ〉もあるとおもう。
でもそのまえに「おとな」になってしまえば、たえず〈産む身体/産まない身体〉という身体の政治学にさらされてしまう。そういう枠組みをうたった短歌だとおもうんですよね。「ひりひり」という痛痒として続く言語化できない身体感覚として。身体につづく異和感が社会への抵抗になっている。痛みって、抵抗なんですよ。
で、時実さんの句も位相はちがうんだけれど、本多さんの歌と響きあっているんじゃないかとおもうんです。
「子供でも産もうかな」と「~でも~ようかな」構文で、〈こどもを産まなければならない〉という枠組みを選択事項的にずらしている。次のしゅんかん、あ、やっぱりやめようかな、と思うかもしれないわけです。「~でも」は、「~を」とはちがうオプショナルな言辞だから。しかも「菜の花菜の花」と童謡のようにリフレインすることによってそこに〈軽み〉をだしている。真剣に語るか、歌うように語るか、といった語りの選択もここでは〈自由〉だということです。産む身体/産まない身体/産めない身体について語るときに、語りの枠組みも強制されなければならないのかという問題もここにはある。
だから、アイデンティティを、あえて、散らかす。
アイデンティティをあえて散らかしながら、それとはちがうかたちのアイデンティティを、まさぐる。
少年のこゑは大人の声優がしかもをんなの声優が出す 本多響乃
宮崎駿『風の谷のナウシカ』(1984)。『ナウシカ』って〈お母さんの不在〉によって成り立っている世界なんじゃないかと思うんですね。たとえば、ナウシカは爺たちの/王蟲の/巨神兵の/クシャナの〈お母さん〉になってあげるんだけれども、でもかれらを〈産んだ〉わけではない。ナウシカもまるで世界にとつぜんある日気がつけばそこに〈いた〉かのように〈お母さん〉とのつながりがぜんぜんない。あの有名なランランララランランランのシーンで、無表情なお母さんがちらっとうつるだけです。娘がいちばん苦しい思いをしているときに母親は無表情でいる。ナウシカの世界っていうのは、〈産む/産まれる〉絆じゃない場所で、〈連帯〉が成立していく物語なんじゃないかっておもうんです。しかもその〈連帯〉が無私の〈奉仕〉や〈犠牲〉によって成立している。そしてわたしの死によって〈他人〉がじぶんの子として産まれていく。そういう世界なんじゃないかと。
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