【感想】あなたわ、わ、たしの言葉を解しない口元を舐めて契約とする 藤島優実
- 2015/11/12
- 00:18
あなたわ、わ、たしの言葉を解しない口元を舐めて契約とする 藤島優実
魂を持った「私」の存在こそ言語ゲーム、つまり言語を可能とするのであり、それなくして言語ゲームは単なる模倣と反応でしかない。これこそウィトゲンシュタインがムーアの言明から読み取ろうとした私的論理であり、彼の最後の思考というべきものである。人は魂を持つことによってのみ語る存在となることができる。我々が言語ゲームに参加し、言葉によって人を動かしたり、動かされたりという「呪術的」とすら呼びうる力を得るのは、単に事物や事態を非人称的に記述するだけでなく、自らを「私」と名乗りそこに参加するからである。「私」と名乗るとは、魂を持つ者と成るということである。魂を持つ者で在るとは、自分の言葉に対し「私の言葉だ」と言ってそれを庇護し、自分の行為に対して「私の行為だ」と言ってそれを引き取る用意があるということである。 鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』
【「わたし」が〈わたし〉を成り立たせている】
この藤島さんの短歌はたしか〈盲導犬〉をめぐる連作で、で、語り手が〈犬〉そのものだったとおもうんです。
だから、「契約」が〈言語〉ではなくて、「口元を舐めて」と非言語を媒介に交わされている。
で、たとえ語り手が〈犬〉でなかったとしても、「わ、わ、たし」という〈わたし〉のありようから、〈発話行為〉の根っこのありようを問うことがここには描かれているようにおもうんです。
〈わたし〉が発話できるということはあくまで〈わたし〉が成立しているからという幻想でしかなくて、つまり、〈わたし〉は〈わたし〉が発話していることを〈わたしは知っている〉ということでしかなく、その〈わたし〉が、〈わ、わ、たし〉のようにばらけた場合、発話行為はいつでも成立しなくなる危機と隣り合わせにあるのではないか。
意味はなんだっていい。でも〈わたし〉があるかぎり、有意味性はたもてる。でもその〈わたし〉が〈わ、わ、たし〉になったときにどんなに有意味だろうとそれは成立しないかもしれない。
だから、犬や猫とはなすときわたしたちはいつもこんなことを率直に問いかけられているきがするんですよ。わたしと発話しはじめるわたしとはなんなのか。わん、や、にゃあ、にはどれくらいの〈私性〉があるのか。そもそも、発話はなりたつのかといった、わん、や、にゃあ、や、しゃー、からの問いかけ。
年老いていかないでわかった 言ったそばから君はもうとおくなる 藤島優実
宮崎駿『魔女の宅急便』(1989)。このアニメは最後にそれまでふつうに主人公のキキと人語でしゃべっていたジジがしゃべらなくなるという、〈なぜジジは人語をしゃべらなくなったのか〉問題というのがあるんですが、それはキキが成長してもうジジとコミュニケーションする必要がなくなったから、という指摘もあります。そうなると、ジジの発話っていうのは、キキの〈私=私〉内で成立していたっていうことにもなります。必要じゃなくなれば、ジジの発話はなくなるということなので。だとしたら、ナウシカで人語を発話しなかったテトはなんだったのか。もしくはカオナシの〈わ、わ、たし〉のような発話のありようはどう考えればいいのか。
魂を持った「私」の存在こそ言語ゲーム、つまり言語を可能とするのであり、それなくして言語ゲームは単なる模倣と反応でしかない。これこそウィトゲンシュタインがムーアの言明から読み取ろうとした私的論理であり、彼の最後の思考というべきものである。人は魂を持つことによってのみ語る存在となることができる。我々が言語ゲームに参加し、言葉によって人を動かしたり、動かされたりという「呪術的」とすら呼びうる力を得るのは、単に事物や事態を非人称的に記述するだけでなく、自らを「私」と名乗りそこに参加するからである。「私」と名乗るとは、魂を持つ者と成るということである。魂を持つ者で在るとは、自分の言葉に対し「私の言葉だ」と言ってそれを庇護し、自分の行為に対して「私の行為だ」と言ってそれを引き取る用意があるということである。 鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』
【「わたし」が〈わたし〉を成り立たせている】
この藤島さんの短歌はたしか〈盲導犬〉をめぐる連作で、で、語り手が〈犬〉そのものだったとおもうんです。
だから、「契約」が〈言語〉ではなくて、「口元を舐めて」と非言語を媒介に交わされている。
で、たとえ語り手が〈犬〉でなかったとしても、「わ、わ、たし」という〈わたし〉のありようから、〈発話行為〉の根っこのありようを問うことがここには描かれているようにおもうんです。
〈わたし〉が発話できるということはあくまで〈わたし〉が成立しているからという幻想でしかなくて、つまり、〈わたし〉は〈わたし〉が発話していることを〈わたしは知っている〉ということでしかなく、その〈わたし〉が、〈わ、わ、たし〉のようにばらけた場合、発話行為はいつでも成立しなくなる危機と隣り合わせにあるのではないか。
意味はなんだっていい。でも〈わたし〉があるかぎり、有意味性はたもてる。でもその〈わたし〉が〈わ、わ、たし〉になったときにどんなに有意味だろうとそれは成立しないかもしれない。
だから、犬や猫とはなすときわたしたちはいつもこんなことを率直に問いかけられているきがするんですよ。わたしと発話しはじめるわたしとはなんなのか。わん、や、にゃあ、にはどれくらいの〈私性〉があるのか。そもそも、発話はなりたつのかといった、わん、や、にゃあ、や、しゃー、からの問いかけ。
年老いていかないでわかった 言ったそばから君はもうとおくなる 藤島優実
宮崎駿『魔女の宅急便』(1989)。このアニメは最後にそれまでふつうに主人公のキキと人語でしゃべっていたジジがしゃべらなくなるという、〈なぜジジは人語をしゃべらなくなったのか〉問題というのがあるんですが、それはキキが成長してもうジジとコミュニケーションする必要がなくなったから、という指摘もあります。そうなると、ジジの発話っていうのは、キキの〈私=私〉内で成立していたっていうことにもなります。必要じゃなくなれば、ジジの発話はなくなるということなので。だとしたら、ナウシカで人語を発話しなかったテトはなんだったのか。もしくはカオナシの〈わ、わ、たし〉のような発話のありようはどう考えればいいのか。
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