【感想】足許がゆらゆらとする。(せ) ○ き し しか ○ 嘘かもしれない 兵庫ユカ
- 2015/11/12
- 00:30
足許がゆらゆらとする。(せ) ○ き し しか ○ 嘘かもしれない 兵庫ユカ
【過去はいつだって暴力的だ】
過去の助動詞「き」の活用が〈引用〉されている短歌なんですが、この助動詞「き」ってよく語り手が実際経験したことのある過去をあらわすときの助動詞って古文で習うやつですよね。
だから、『伊勢物語』の「昔、をとこありけり」の「けり」だと自分が経験したんじゃなくて、こんなふうに聞いたんですよ、という過去になる。「き」ならじぶんの話になるし、「けり」ならひとの話になる。
だから、これは〈自己をめぐる過去〉がパノラマ的にとうとつに・暴力的に展開しているとみてもいいんじゃないかとおもうんです。「ゆらゆらとする」と過去の活用が始まるまえに語っているように、〈自分自身の過去〉に対してさまざまな活用を行っている。
それはこうあったかもしれないとか、こうあるべきだったとか、こうでしかなかったんだとか、こうではなかったんじゃないかとか。
でも、おもしろいのは、「(せ)」って括弧がついているところで、ほんとうに教科書にのってる活用表の〈ママ〉の引用みたいなかんじになっている。つまり、自分がそうしたくで、じぶんの言語のなかでその活用を行っているというよりも、とつぜん、ふいに、じぶんの言語外から〈活用〉がやってきてしまった、とかんがえたほうがいいんじゃないかとおもうんです。
だから、じぶん以外の場所からとつぜん暴力的な出来事、じぶんじしんのこれまでが〈活用〉されてしまうようななにかが起きた。そうして「嘘かもしれない」と、おもう。あくまでひとつの解釈なんですが、そういう歌なんじゃないかとおもうんです。
もっというとこの歌が語っているのは、〈引用〉っていうのは〈暴力〉なんだってことなんじゃないかと。
つまり、じぶんが引用したくなくても、かってに外部から引用がやってくる場合だってあるんだと。でも、回想とか過去に関することってそういうことなんじゃないか。じぶんでコントロールできなくて、かってに思い出したりとか、かってにそうでない過去の可能性をまさぐってしまう。過去っていうのはそういうコントロールの外部にあるものなんじゃないか。
そういうことまで突いてくる短歌なんじゃないかっておもうんです。
正しいね正しいねってそれぞれの地図を広げて見ているふたり 兵庫ユカ
ウディ・アレン『アニー・ホール』(1977)。『アニー・ホール』で大事なのが、ふたりの〈恋愛〉がすべて終わった時点から語り手がたえず思い出しては語っているっていうことなんじゃないかとおもうんです。『アニー・ホール』ではさまざまな恋愛が語られるんだけれども、すべて語り手本人の〈どうして別れちゃったんだろう、あんなに楽しかったのに〉に収束していく。そのために時系列をいろいろチェンジしたりジャンプしたりして、ほんとうに好きだったひとのために、アニーのために、時系列の〈お膳立て=プロット〉をつくりなおしていく。でもそうやって語りなおしていくなかで、アニーはぜんぜん自分に気がなかったことや未練もないことにきがついてしまう。だから、これって複雑なプロットを通した〈壮大な未練の映画〉なんじゃないかとおもうんですよ。でもそこまでしても、(しょうもなくも)好きだったってことだったとおもうんだけれど。
【過去はいつだって暴力的だ】
過去の助動詞「き」の活用が〈引用〉されている短歌なんですが、この助動詞「き」ってよく語り手が実際経験したことのある過去をあらわすときの助動詞って古文で習うやつですよね。
だから、『伊勢物語』の「昔、をとこありけり」の「けり」だと自分が経験したんじゃなくて、こんなふうに聞いたんですよ、という過去になる。「き」ならじぶんの話になるし、「けり」ならひとの話になる。
だから、これは〈自己をめぐる過去〉がパノラマ的にとうとつに・暴力的に展開しているとみてもいいんじゃないかとおもうんです。「ゆらゆらとする」と過去の活用が始まるまえに語っているように、〈自分自身の過去〉に対してさまざまな活用を行っている。
それはこうあったかもしれないとか、こうあるべきだったとか、こうでしかなかったんだとか、こうではなかったんじゃないかとか。
でも、おもしろいのは、「(せ)」って括弧がついているところで、ほんとうに教科書にのってる活用表の〈ママ〉の引用みたいなかんじになっている。つまり、自分がそうしたくで、じぶんの言語のなかでその活用を行っているというよりも、とつぜん、ふいに、じぶんの言語外から〈活用〉がやってきてしまった、とかんがえたほうがいいんじゃないかとおもうんです。
だから、じぶん以外の場所からとつぜん暴力的な出来事、じぶんじしんのこれまでが〈活用〉されてしまうようななにかが起きた。そうして「嘘かもしれない」と、おもう。あくまでひとつの解釈なんですが、そういう歌なんじゃないかとおもうんです。
もっというとこの歌が語っているのは、〈引用〉っていうのは〈暴力〉なんだってことなんじゃないかと。
つまり、じぶんが引用したくなくても、かってに外部から引用がやってくる場合だってあるんだと。でも、回想とか過去に関することってそういうことなんじゃないか。じぶんでコントロールできなくて、かってに思い出したりとか、かってにそうでない過去の可能性をまさぐってしまう。過去っていうのはそういうコントロールの外部にあるものなんじゃないか。
そういうことまで突いてくる短歌なんじゃないかっておもうんです。
正しいね正しいねってそれぞれの地図を広げて見ているふたり 兵庫ユカ
ウディ・アレン『アニー・ホール』(1977)。『アニー・ホール』で大事なのが、ふたりの〈恋愛〉がすべて終わった時点から語り手がたえず思い出しては語っているっていうことなんじゃないかとおもうんです。『アニー・ホール』ではさまざまな恋愛が語られるんだけれども、すべて語り手本人の〈どうして別れちゃったんだろう、あんなに楽しかったのに〉に収束していく。そのために時系列をいろいろチェンジしたりジャンプしたりして、ほんとうに好きだったひとのために、アニーのために、時系列の〈お膳立て=プロット〉をつくりなおしていく。でもそうやって語りなおしていくなかで、アニーはぜんぜん自分に気がなかったことや未練もないことにきがついてしまう。だから、これって複雑なプロットを通した〈壮大な未練の映画〉なんじゃないかとおもうんですよ。でもそこまでしても、(しょうもなくも)好きだったってことだったとおもうんだけれど。
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