【ふしぎな川柳 第十五夜】むかし、ドラえもんありけり-野沢省悟-
- 2015/11/12
- 23:50
むかしむかしのび太とドラえもんでした 野沢省悟
【未来はことばのなかにある】
この句には実は複雑な構造が仕掛けられているのではないかとおもうんですね。
まずですね、〈物語り〉を〈わたしの物語り〉に組み換えているという点があげられます。
たとえば『源氏物語』がある女房がわたしたちにこんなことがあったと〈物語っ〉ていたように、「むかしむかしあるところに~」という〈物語=物語り〉は基本的には他者がこの〈わたし〉にこの〈わたし〉と関係のない話をきかせてくれるものですよね。
だから桃太郎でも、「むかしむかしおじいさんとおばあさんが~」ではじまっている。お話をきかせてはもらうんだけれども、それはわたしたちとは関係のない物語。それが〈物語〉だとおもうんですね。
でも、ここではそうした「むかしむかし~」という〈物語〉的枠組みを採用しながら、「のび太とドラえもんでした」ととつぜん言い切ってしまう。「のび太とドラえもんがいました」ではなく、「でした」と聴き手をも物語に取り込んでいく。
この「でした」があることによって、聴き手はこうも思う。わたしもむかし「のび太」か「ドラえもん」だったかもしれないと。
つまりこれは〈物語〉というよりも、じつはわたしたちの〈起源〉を語ろうとする〈神話〉に近いんじゃないかとおもうんですね。わたしたちの国はこうしてできた、というような。
でもここからもまた枠組みが複雑になってくるんですが、「むかしむかし」という時間指定にくらべると、「のび太とドラえもん」っていうのはわたしたちの現在時を超えて未来の時間にいる存在だということもできる。そうすると語りの枠組みだけでなく、時間の枠組みもねじれている。つまり、未来の神話を語っているのかもしれない。わたしたちが絶滅したあとの。
そうすると、この「むかしむかし」というのがわたしたちの〈現在時〉かもしれない。そうしてはるか未来にだれかがそれを語っているのかもしれない。
といったふうに、枠組みがいろいろ複雑にねじれることによって、さまざまな位相がいりくんでいる句なのではないかとおもうんですよね。
わたしたちが、わたしたちをわすれたころに、この句はやってくるんじゃないか。そういう未来の句。
忘れたことを忘れてふりつづく雪と 野沢省悟
細田守『時をかける少女』(2006)。この映画で有名なシーンがさいごの「未来で待ってる」だとおもうんですね。で、相手から「未来で待ってる」っていわれて主人公は泣きながら「うん、すぐ行く。走っていく」っていうんだけれども、このときそれまで軽々と時間を跳躍してきた〈走る〉とはちがう、時間をもう超えられない泥臭い〈走る〉を主人公は使っている。たぶん、その〈走る〉では会えないかもしれないんだけれども、それでも主人公はその泥臭い動詞をはじめてここで使う。それがこの映画と主人公がたどりつくべき場所だったんじゃないかとおもうんですよね。「時をかける」走る、ではなくて、「時がかけられない」走る、という動詞にたどりつくこと。その動詞を使ってもいい相手を見つけられること。その意味で、これは動詞を介した恋愛映画なんじゃないかとおもうんです。恋愛映画っていうのは、じぶんがそのひとにだけしか使えない動詞を発見することなんじゃないかって、おもうんですよ。いま、わかったんだけれど。
【未来はことばのなかにある】
この句には実は複雑な構造が仕掛けられているのではないかとおもうんですね。
まずですね、〈物語り〉を〈わたしの物語り〉に組み換えているという点があげられます。
たとえば『源氏物語』がある女房がわたしたちにこんなことがあったと〈物語っ〉ていたように、「むかしむかしあるところに~」という〈物語=物語り〉は基本的には他者がこの〈わたし〉にこの〈わたし〉と関係のない話をきかせてくれるものですよね。
だから桃太郎でも、「むかしむかしおじいさんとおばあさんが~」ではじまっている。お話をきかせてはもらうんだけれども、それはわたしたちとは関係のない物語。それが〈物語〉だとおもうんですね。
でも、ここではそうした「むかしむかし~」という〈物語〉的枠組みを採用しながら、「のび太とドラえもんでした」ととつぜん言い切ってしまう。「のび太とドラえもんがいました」ではなく、「でした」と聴き手をも物語に取り込んでいく。
この「でした」があることによって、聴き手はこうも思う。わたしもむかし「のび太」か「ドラえもん」だったかもしれないと。
つまりこれは〈物語〉というよりも、じつはわたしたちの〈起源〉を語ろうとする〈神話〉に近いんじゃないかとおもうんですね。わたしたちの国はこうしてできた、というような。
でもここからもまた枠組みが複雑になってくるんですが、「むかしむかし」という時間指定にくらべると、「のび太とドラえもん」っていうのはわたしたちの現在時を超えて未来の時間にいる存在だということもできる。そうすると語りの枠組みだけでなく、時間の枠組みもねじれている。つまり、未来の神話を語っているのかもしれない。わたしたちが絶滅したあとの。
そうすると、この「むかしむかし」というのがわたしたちの〈現在時〉かもしれない。そうしてはるか未来にだれかがそれを語っているのかもしれない。
といったふうに、枠組みがいろいろ複雑にねじれることによって、さまざまな位相がいりくんでいる句なのではないかとおもうんですよね。
わたしたちが、わたしたちをわすれたころに、この句はやってくるんじゃないか。そういう未来の句。
忘れたことを忘れてふりつづく雪と 野沢省悟
細田守『時をかける少女』(2006)。この映画で有名なシーンがさいごの「未来で待ってる」だとおもうんですね。で、相手から「未来で待ってる」っていわれて主人公は泣きながら「うん、すぐ行く。走っていく」っていうんだけれども、このときそれまで軽々と時間を跳躍してきた〈走る〉とはちがう、時間をもう超えられない泥臭い〈走る〉を主人公は使っている。たぶん、その〈走る〉では会えないかもしれないんだけれども、それでも主人公はその泥臭い動詞をはじめてここで使う。それがこの映画と主人公がたどりつくべき場所だったんじゃないかとおもうんですよね。「時をかける」走る、ではなくて、「時がかけられない」走る、という動詞にたどりつくこと。その動詞を使ってもいい相手を見つけられること。その意味で、これは動詞を介した恋愛映画なんじゃないかとおもうんです。恋愛映画っていうのは、じぶんがそのひとにだけしか使えない動詞を発見することなんじゃないかって、おもうんですよ。いま、わかったんだけれど。
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:ふしぎな川柳-川柳百物語拾遺-