【ふしぎな川柳 第十六夜】急に浮き上がってどこにゆくのか-樋口由紀子-
- 2015/11/13
- 01:00
足裏から遠く離れていくばかり 樋口由紀子
【浮きながら、語る】
いっけん、ぱっと読むとナチュラルなかんじにみえるんだけれども、よくよく考えてみると、「足裏から遠く離れていく」状況っていったいどういう状況なんだろうとふしぎになってしまう川柳です。
わたしもよくわかっていないまま書き出してしまったんですが、どういうことなんでしょう。
でも、このよくわからないまま、離陸するかんじが、ちょっとこの句のダイナミズムと合っているのかなともおもうんですね。
この句は「~していくばかり」と実況中継的ですよね。『銀河鉄道999』なら、鉄郎が銀河鉄道に乗ったメーテルを見送りながら、ああメーテルとどんどん離れていくばかりだ、という感じだとおもうんですよ。しかも「ばかり」でとうとつに終わっているので、句の形式としてもなんの決着もついていない。もっと、もっと、離れていくんだとおもいます、これからも。定型としてもどう取っていいかわからない、非常に不安定な、離陸して浮遊しているようなかんじですよね。
たとえばですね、この句がどんな語り手だったら自然かなあと考えたときに、〈かぐや姫〉だったらいけそうですよね。それまで地上にいたかぐや姫は天上人といっしょにいくときに、足裏から、ふっと地上を離れる。だから、〈離陸〉とか〈飛ぶ〉ときですよね。しかも「足裏」というじぶんの身体だから、乗り物に乗ってたらだめです。だから、飛ばなければならない。タケコプターをつけてる主体でもいけそうだけれど、タケコプターをつけてお別れするシーンはあんまり考えられないので(ひとはタケコプターをつけたままシリアスになれるのか)、だからやっぱりかぐや姫的語り手のようにも、おもう。
大事なことは、句の構造が、不安定ながらも、限定的に語っているところなんだとおもいます。「足裏」という規定、「ばかり」という結語。それらが、限定され、かつ、ひらかれた解釈へと飛翔している。
川柳のなかでひとはほんとうに飛べるのかという問題が、ここにはある。
光りなさいと星のマークをつけられる 赤松ますみ
りんたろう『劇場版 銀河鉄道999』(1979)。この『銀河鉄道999』というか松本零士マンガで大事なのが、恋人の女性の背が異常に高いということなんではないかとおもうんですよね。鉄郎とメーテルやトチローとエメラルダスがそうで、この身体の階層化はなんだろうっていつもすごく気になるんですよ。でも、この階層化を解消していくのが〈銀河鉄道〉という装置の役割なのかなとおもうんですね。たしかメーテルは銀河鉄道に乗りながら鉄郎とキスをしていたと思うんだけれども、列車というメディアを介してなら性的関係が結べるってことなんじゃないかとおもうんです。つまり、機械が性のデバイスになっていくありよう、あるいは機械を迂回しないと性的関係を結べない〈男性〉のありようを描いているんじゃないかともおもうんだけれども、でも、ちょっと不安なので、観なおそうかな、ええと、
【浮きながら、語る】
いっけん、ぱっと読むとナチュラルなかんじにみえるんだけれども、よくよく考えてみると、「足裏から遠く離れていく」状況っていったいどういう状況なんだろうとふしぎになってしまう川柳です。
わたしもよくわかっていないまま書き出してしまったんですが、どういうことなんでしょう。
でも、このよくわからないまま、離陸するかんじが、ちょっとこの句のダイナミズムと合っているのかなともおもうんですね。
この句は「~していくばかり」と実況中継的ですよね。『銀河鉄道999』なら、鉄郎が銀河鉄道に乗ったメーテルを見送りながら、ああメーテルとどんどん離れていくばかりだ、という感じだとおもうんですよ。しかも「ばかり」でとうとつに終わっているので、句の形式としてもなんの決着もついていない。もっと、もっと、離れていくんだとおもいます、これからも。定型としてもどう取っていいかわからない、非常に不安定な、離陸して浮遊しているようなかんじですよね。
たとえばですね、この句がどんな語り手だったら自然かなあと考えたときに、〈かぐや姫〉だったらいけそうですよね。それまで地上にいたかぐや姫は天上人といっしょにいくときに、足裏から、ふっと地上を離れる。だから、〈離陸〉とか〈飛ぶ〉ときですよね。しかも「足裏」というじぶんの身体だから、乗り物に乗ってたらだめです。だから、飛ばなければならない。タケコプターをつけてる主体でもいけそうだけれど、タケコプターをつけてお別れするシーンはあんまり考えられないので(ひとはタケコプターをつけたままシリアスになれるのか)、だからやっぱりかぐや姫的語り手のようにも、おもう。
大事なことは、句の構造が、不安定ながらも、限定的に語っているところなんだとおもいます。「足裏」という規定、「ばかり」という結語。それらが、限定され、かつ、ひらかれた解釈へと飛翔している。
川柳のなかでひとはほんとうに飛べるのかという問題が、ここにはある。
光りなさいと星のマークをつけられる 赤松ますみ
りんたろう『劇場版 銀河鉄道999』(1979)。この『銀河鉄道999』というか松本零士マンガで大事なのが、恋人の女性の背が異常に高いということなんではないかとおもうんですよね。鉄郎とメーテルやトチローとエメラルダスがそうで、この身体の階層化はなんだろうっていつもすごく気になるんですよ。でも、この階層化を解消していくのが〈銀河鉄道〉という装置の役割なのかなとおもうんですね。たしかメーテルは銀河鉄道に乗りながら鉄郎とキスをしていたと思うんだけれども、列車というメディアを介してなら性的関係が結べるってことなんじゃないかとおもうんです。つまり、機械が性のデバイスになっていくありよう、あるいは機械を迂回しないと性的関係を結べない〈男性〉のありようを描いているんじゃないかともおもうんだけれども、でも、ちょっと不安なので、観なおそうかな、ええと、
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