【感想】頭蓋骨の短歌/俳句/川柳-頭蓋骨のきれいなお姉さんは好きですか-
- 2014/06/27
- 01:20
「知り合いにね、頭蓋骨好きのひとがいまして」などと話しはじめるひともいる。
「街で好きな頭蓋骨の異性に会うと、つい茶などに誘ってしまうのだそうです」
「誘われますかね、そういうので」
「ええ、これが案外うまく誘えるんだそうです」
「誘ってどうするのですか」
川上弘美「頭蓋骨、桜」『あるようなないような』
八上桐子さんの川柳にこんな句があります。
紫陽花へ向く六月の頭蓋骨 八上桐子
この句のおもしろさは、ひとをひとではなく、「頭蓋骨」としてとらえているところがおもしろいと思うんですね。そうとらえているのは誰か? 語り手ですよね。語り手がみているのは、「ひと」ではなく、「ひと」の奥にある「頭蓋骨」です。しかもここがおもしろいと思うんですが「六月の」という修飾がつくことによって季節季節によって差異化された「頭蓋骨」を語り手は感じています。つまり、語り手は解剖学的にひとをみているのではなく、あくまで季節のなかから微視的にひとの皮の奥にわけいっている。この句をブログ『そらいろの空』で紹介されている瀧村小奈生さんが「紫陽花と頭蓋骨の相関関係」を指摘されていますが、私もこの頭蓋骨は紫陽花ありきの頭蓋骨だと思うわけです。紫陽花から関数的に導き出された頭蓋骨。しかも季感をもっている頭蓋骨。
つまり一見語り手は、生物学・解剖学的に人体を微分する視線を有しているかのようにみせかけながらも、「六月の」と頭蓋骨に飾りをおくことによってそういった無機的な視線を有機的な視線にくつがえすわけです。
つまりそれはその季節のなかでしか感じ取れない、一回的で有機的な、語り手にとっては意味をふりまく頭蓋骨になります。
こういった一回的な、語り手にとっては有機的な頭蓋骨をもうすこしみてみましょう。
ここでもう安心してもいいですかキャベツはあなたの頭蓋に似てる 藤本玲未
藤本さんのうたは頭蓋骨ではないんですが、キャベツと頭蓋の相関関係に語り手が注目している点で、さきほどの八上さんの句の紫陽花と頭蓋骨の関係によく似ています。藤本さんの短歌のモチーフのひとつに「安心できる場所の模索」というのがあるように思うんですがここでも語り手は「安心」を模索しています。安心できる世界とはなんでしょう。あえてこの短歌でそれを読み解いてみるならば、それは「あなた」が蔓延する世界、あなたがアナロジーで頒布する世界、のようにおもうんですね。だからこそ、語り手はキャベツとあなたの頭蓋のアナロジーに気がついて「ここでもう安心していいですか」と発話することができた。
でも、大事なのは、「いいですか」と問いかけの形式をとっていることであり、そのアナロジーがいつ崩れるかもしれない緊張感でもあると思います。「キャベツは」と主格をきっちり発話できている時点で、語り手はキャベツがキャベツであることを知っています。「似てる」というのはあくまで「似てる」でしかなく、アナロジーの世界とはそういったいつ類似の論理がくずれるかもしれない緊張感ある世界です。
そうした「あなた」への想いが世アナロジーによって世界のすみずみまでゆきわたりつつも、しかしそれはいつ一掃されてしまうかもしれないゼロワンの世界でもあるというそういう緊張感のあるうたのように思います。
おなじ頭蓋を詠んだうたでも、「あなた」の頭蓋ではなく、「わたし」の頭蓋を詠んだうたもあります。みてみましょう。
乱丁の辞典枕にまどろめば頭蓋より零れだす糖蜜 吉田恭大
吉田さんのうたでは頭蓋が器としてとらえられています。もっといえば、この頭蓋はメディアです。しかも「乱丁の辞典」によって失調しているメディア、混線しているメディアとしての頭蓋ととらえてもいいのではないでしょうか。頭蓋はどこかに「穴」があいており、「糖蜜」が「零れだ」しています。ここにあるのは、「乱丁の辞典」のような秩序のなかに侵入してくるカオスが、いつ「わたし」にも起こるかわからない境界が混濁する恐怖のようにおもいます。しかし語り手は同時に「まどろ」んでもいます。つまりそのような境界の混濁を、安寧としてたのしんでいるのもまたこの語り手だとおもうんですよね。だからそれは、甘い。糖蜜のように。
そのような「わたし」の頭蓋骨をよんだ俳句につぎのような句があります。
髪洗ふやや大きめの頭蓋骨 福井隆子
この句においては、わたしがわたしに対して、髪を洗うという視界のシャットダウンのなかで、頭蓋骨を意識する状況が詠まれています。この句のおもしろさは「やや大きめ」のにあると思うんですね。つまり、語り手は「やや大きめ」のという大小の意識を発話することによって、他と比べるという相対の論理を持ち込んでいるんではないかと思うんですね。それは自分が想像していた頭蓋骨かもしれないし、ひとの頭蓋骨かもしれない。ともかく、浴室という密室で、さらに目蓋がとじられた眼の密室のなかで、語り手は頭蓋骨によって〈他〉にひらかれています。そのような頭蓋骨を介してのアクロバティックな意識の変換がおもしろいのではないかとおもうんですね。
こういった他者性の論理をもった頭蓋骨につぎのような川柳があります。
湿っててうまく割れない頭蓋骨 なかはられいこ
語り手は頭蓋骨を割ろうとしているんですが、「うまく割れない」でいます。私はここに〈他者〉としての頭蓋骨にであっている語り手がいるのではないかとかんがえています。「湿ってて」というのがポイントだとおもうんですが、つまり、頭蓋骨には頭蓋骨の生理があり、生態があり、論理があります。割ろうとするのは語り手の論理です。しかし、「湿り気」はおそらく頭蓋骨が語り手に対して抗している頭蓋骨の論理です。
このような頭蓋骨の論理にであって、頭蓋骨に立ちはだかられてしまっているのがこのなかはらさんの頭蓋骨川柳のおもしろさなのではないかとおもいます。
さいごに頭蓋骨そのものをゼロとしてかんがえる、まったく反対の視点からの頭蓋俳句を紹介します。
台風や薬缶に頭蓋ほどの闇 山口優夢
ここではゼロの代理=表象に「頭蓋」を用いることによって「闇」という空虚でありながらも、重量感あるゼロの比喩をうちだすことに成功しているようにおもうんですね。しかも、外は台風です。ということは、薬缶の空間は、いまこの語り手がいる密閉された部屋としての空間も薬缶の空間とアナロジーになっているかもしれません。いつ停電するかわからないこの部屋の空間は、まさに薬缶の頭蓋ほどの闇になりうる可能性をいつも秘めているのです。
ちなみに頭蓋骨にこだわっている文学者に、サミュエル・ベケットがいます。ベケットにとって、おそらく頭蓋骨は、語り手を徹底に微分化し行き着いた果ての解体された語り手のなれの果てであり、同時に混濁された言語、非交通的なコミュニケーションのなかでそれでも暴力的にコミュニケーションを行うためのさいごのメディアです。ベケットの頭蓋(骨)に関するふたつの文章をみて、この文章をしめくくりたいとおもいます。
以上、頭蓋骨が好きな頭蓋骨がお送りしました。
ありがとうございました。
頭蓋のなかから一と二が消え去った。虚空から。凝視から。頭蓋のなか頭蓋をのぞいてすべて消え去った。凝視をのぞいて。薄暗い虚空のなかそれだけ。それだけが見られる。薄暗く見られる。頭蓋のなかの頭蓋だけが見られる。凝視する目だけが。
ベケット『いざ最悪の方へ』
母との意志の疎通には、母の頭蓋骨をたたくことにしていた。一つたたけばイエス、二つたたけばノー、三つはわからない、四つは金、五つがさようならだった。
ベケット『モロイ』
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