【ふしぎな川柳 第十七夜】たましいを気遣う-倉間しおり-
- 2015/11/13
- 01:30
魂に塗るクリームはありますか 倉間しおり
【デイリーなたましい】
こないだも八上桐子さんのたましいの句を紹介させていただいたんですが、今回は倉間さんの魂の句です。
この句でまずおもしろいのが、素肌のように魂を気遣っている点だとおもうんですよね。
で、魂っていうのは精神論が多いとおもうんですね、魂をよくするためにはふだんから善く生きるとはどういうことかを考えるとか。
でもこの倉間さんの句では魂を〈器質〉としてとらえている。形而上、ではなくて、形而下の直にさわれる皮膚のようなものとしてとらえている。
でも、だからこそ、ですよね。だからこそ、魂は手入れしなければ、皮膚のように荒れたり、がさがさになったりするかもしれない。
そういう魂への直截な気遣いが句になっているのではないか。しかも、クリームなので、魂を語るときにも、決して高尚な語り口で語るわけではなく、あくまで日常的に、日々のケアとしての魂を、語る。
そして下五が「ありますか」となっているので、これは自分の魂が自分に配慮しているというよりも、ここにはいつも「ありますか」と問いかけるような〈魂のケア〉としての共同的枠組みもある。質問ができる、っていうのはそういう魂についての共通する地盤があってこそですよね。
魂を高みにおくのではなく、あくまでデイリー・ケアのなかで、またそのケアのなかをゆきかうひとびとのなかで、魂がとらえられている。そういう句なのではないか。
そういう〈みんな(の魂)〉の枠組みのなかで〈わたし(の魂)〉のありかたをかんがえるというのも、短詩型が実践しているひとつなのではないかと、おもう。
みんな泣くときに泣くこと難易度5 なかはられいこ
ディズニー『オズ』(1985)。『オズの魔法使い』の続編映画なんですが、ドロシーは精神病院に入れられて、エメラルドシティも石の王様から滅ぼされ、じぶんの首を毎晩お気に入りの生首にとりかえる魔女モンビに支配されているという割とショョッキングな設定の映画なんですが、かかし・ブリキ・ライオンとかつてドロシーには仲間がいたように、今回もチクタクという機械兵やジャックというパンプキン、などが仲間になります。で、ひとつ思うのが、オズの物語っていうのは総じて〈即物的〉な物語なのではないかということです。観念や抽象の王国ではない。これはたとえば『スターウォーズ』と比較してみるといいのかもしれませんが、『スターウォーズ』はフォースがいちばんにおかれる観念の物語(観念の王国)だとおもうんですよね(「フォースとともにあらんことを」)。最後、亡霊になってもみんなニコニコしてでてきているのがそれをあらわしている。でも、〈オズ〉は即物の王国です。で、その魂にクリームを塗れるような〈即物性〉っていうのは、実はたとえば童話リアリズムや絵本リアリズムにとってとても大事なのではないかとおもったりするんです。あの『ネバーエンディングストーリー』でも岩を食べる岩男がでてきていたけれど。
【デイリーなたましい】
こないだも八上桐子さんのたましいの句を紹介させていただいたんですが、今回は倉間さんの魂の句です。
この句でまずおもしろいのが、素肌のように魂を気遣っている点だとおもうんですよね。
で、魂っていうのは精神論が多いとおもうんですね、魂をよくするためにはふだんから善く生きるとはどういうことかを考えるとか。
でもこの倉間さんの句では魂を〈器質〉としてとらえている。形而上、ではなくて、形而下の直にさわれる皮膚のようなものとしてとらえている。
でも、だからこそ、ですよね。だからこそ、魂は手入れしなければ、皮膚のように荒れたり、がさがさになったりするかもしれない。
そういう魂への直截な気遣いが句になっているのではないか。しかも、クリームなので、魂を語るときにも、決して高尚な語り口で語るわけではなく、あくまで日常的に、日々のケアとしての魂を、語る。
そして下五が「ありますか」となっているので、これは自分の魂が自分に配慮しているというよりも、ここにはいつも「ありますか」と問いかけるような〈魂のケア〉としての共同的枠組みもある。質問ができる、っていうのはそういう魂についての共通する地盤があってこそですよね。
魂を高みにおくのではなく、あくまでデイリー・ケアのなかで、またそのケアのなかをゆきかうひとびとのなかで、魂がとらえられている。そういう句なのではないか。
そういう〈みんな(の魂)〉の枠組みのなかで〈わたし(の魂)〉のありかたをかんがえるというのも、短詩型が実践しているひとつなのではないかと、おもう。
みんな泣くときに泣くこと難易度5 なかはられいこ
ディズニー『オズ』(1985)。『オズの魔法使い』の続編映画なんですが、ドロシーは精神病院に入れられて、エメラルドシティも石の王様から滅ぼされ、じぶんの首を毎晩お気に入りの生首にとりかえる魔女モンビに支配されているという割とショョッキングな設定の映画なんですが、かかし・ブリキ・ライオンとかつてドロシーには仲間がいたように、今回もチクタクという機械兵やジャックというパンプキン、などが仲間になります。で、ひとつ思うのが、オズの物語っていうのは総じて〈即物的〉な物語なのではないかということです。観念や抽象の王国ではない。これはたとえば『スターウォーズ』と比較してみるといいのかもしれませんが、『スターウォーズ』はフォースがいちばんにおかれる観念の物語(観念の王国)だとおもうんですよね(「フォースとともにあらんことを」)。最後、亡霊になってもみんなニコニコしてでてきているのがそれをあらわしている。でも、〈オズ〉は即物の王国です。で、その魂にクリームを塗れるような〈即物性〉っていうのは、実はたとえば童話リアリズムや絵本リアリズムにとってとても大事なのではないかとおもったりするんです。あの『ネバーエンディングストーリー』でも岩を食べる岩男がでてきていたけれど。
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