【ふしぎな川柳 第十八夜】Waiting for HANIWA-石橋芳山-
- 2015/11/13
- 23:42
反論のチャンスを待っている埴輪 石橋芳山
【埴輪とヴォイス】
さいきん、日本史の教科書を読み直していて、最初のほうに古墳と埴輪が出てくるのでこの芳山さんの句を思い出しながらじっとみていたんですが、埴輪ってそもそもが〈沈黙の主体〉なんですね。
たぶん、古墳=墓に入れられたってことは、人身御供としての役割ももっていた。だから埴輪はとくにしゃべるひつようはない。人身でさえ、いればいい。カタチをもっていさえすれば、いい。
でも芳山さんの句はそうした沈黙の主体に〈口=声=ヴォイス〉を与えたわけですよね。いや、沈黙しているんじゃなくて、ずっと反論の機会を待っているだけだと。
でもこれって埴輪だけじゃなくてなんでもそうで、なにか仕事や作業にとりかかるときは、とりあえず最初は沈黙でなんにも発話できないまま、それでもそれそのものと取っ組み合ってつきあっていくしかないですよね。じぶんのなかでそれ相応の概念ができてくるまでは。
最初はなんでも埴輪的主体なんだけれど、だんだんじぶんのなかでも長く続けているうちに、これだけは言えるんじゃないかな、みたいなことがわかってくる。でもそれは長い時間をかけて、あきらめずに取り組まなきゃならない。
そういう埴輪的主体と、埴輪的主体から出せるヴォイスがあるとおもうんですよ。
だから、沈黙の経験値というものが、ある。
黙すとき舌は正しい位置にある 草地豊子
アンゲロプロス『霧の中の風景』(1988)。アンゲロプロスの映画ってほんとうに必要なことしか登場人物たちがしゃべらなくて、ロングショット(遠景)の多さもあいまって、ほとんど人間たちが黙っているんですよ。で、しゃべるときは自分のしゃべりたいことではなくて、なにかの引用だったり、挿話だったりする。それはカウリスマキ的な沈黙の主体とはちがって、〈いま・ここ〉の時間だけでなく、〈歴史〉という時間を背負っていることの沈黙なんじゃないかと思うんですね。たとえば〈私〉は発話しようとしても、百年前の、千年前の〈私〉も同時に発話しようとする。だからいま・この場でわたしは沈黙せざるをえない。それでもあなたが眼の前にいるから私は黙ってあなたと同じ〈シークエンス〉=画面=映画的風景のなかに立っている。それがあなたとの時間になる。
【埴輪とヴォイス】
さいきん、日本史の教科書を読み直していて、最初のほうに古墳と埴輪が出てくるのでこの芳山さんの句を思い出しながらじっとみていたんですが、埴輪ってそもそもが〈沈黙の主体〉なんですね。
たぶん、古墳=墓に入れられたってことは、人身御供としての役割ももっていた。だから埴輪はとくにしゃべるひつようはない。人身でさえ、いればいい。カタチをもっていさえすれば、いい。
でも芳山さんの句はそうした沈黙の主体に〈口=声=ヴォイス〉を与えたわけですよね。いや、沈黙しているんじゃなくて、ずっと反論の機会を待っているだけだと。
でもこれって埴輪だけじゃなくてなんでもそうで、なにか仕事や作業にとりかかるときは、とりあえず最初は沈黙でなんにも発話できないまま、それでもそれそのものと取っ組み合ってつきあっていくしかないですよね。じぶんのなかでそれ相応の概念ができてくるまでは。
最初はなんでも埴輪的主体なんだけれど、だんだんじぶんのなかでも長く続けているうちに、これだけは言えるんじゃないかな、みたいなことがわかってくる。でもそれは長い時間をかけて、あきらめずに取り組まなきゃならない。
そういう埴輪的主体と、埴輪的主体から出せるヴォイスがあるとおもうんですよ。
だから、沈黙の経験値というものが、ある。
黙すとき舌は正しい位置にある 草地豊子
物ごとを考えるとはどういうことなのか。テオドール・アドルノはこんなことを言っています。哲学であれ科学であれ、まずは事物の経験を辛抱づよく久しい間にわたってしつづけることだ、と。その地道な格闘の努力の中で、少しずつ、ゆっくりと、概念がつくられ、また可能ならば理論の体系も築きあげられるわけです。挫折した場合には、もう一度、物の経験、物との交流の場に立ち返ります。辛抱づよさがすべてなのです。また時折の失敗や挫折などはよくあることで気にすることはないのです。むしろ研究や思索というのは失敗の連続であり、経験とは、そういったものにほかならないのです。物に呑み込まれず、また物ばなれもせず、距離をとると同時に親しみを徐々に深めていくことが、「考える」ことの根本なのです。この意味での経験は、考えることのアルファでありオメガなのです。 今村仁司『現代思想の基礎理論』
アンゲロプロス『霧の中の風景』(1988)。アンゲロプロスの映画ってほんとうに必要なことしか登場人物たちがしゃべらなくて、ロングショット(遠景)の多さもあいまって、ほとんど人間たちが黙っているんですよ。で、しゃべるときは自分のしゃべりたいことではなくて、なにかの引用だったり、挿話だったりする。それはカウリスマキ的な沈黙の主体とはちがって、〈いま・ここ〉の時間だけでなく、〈歴史〉という時間を背負っていることの沈黙なんじゃないかと思うんですね。たとえば〈私〉は発話しようとしても、百年前の、千年前の〈私〉も同時に発話しようとする。だからいま・この場でわたしは沈黙せざるをえない。それでもあなたが眼の前にいるから私は黙ってあなたと同じ〈シークエンス〉=画面=映画的風景のなかに立っている。それがあなたとの時間になる。
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