【ふしぎな川柳 第十九夜】前髪ジャーニー-倉本朝世-
- 2015/11/14
- 00:09
天の川まで前髪を剪(き)りにゆく 倉本朝世
【前髪は、旅】
この倉本さんの句で直感的にいいなと感じたのが、ずいぶん遠いところまでライトなことをしにいくんだな、っていうことです。
前髪を切ることって髪を切ることとは違ってライトなことだとおもうんですけど、それを「天の川まで」とかなり遠路はるばる切りにゆく。だからこの「ゆく」っていうところにすごく長い道程があるとおもうんですよね。前髪なんだけれども。
ただ、前髪って絶妙に表情が変わってくるラインだから、「天の川」で切らないとどうしてもその〈表情〉が出せないっていう語り手の思い入れがあるかもしれませんよね。天の川じゃないんとだめなんだっていう。
あともうひとつは、この句が〈線〉というか〈ライン〉の物語になっていることがおもしろいなと思います。
天の川のライン、前髪のライン、ハサミの刃のライン、切られて落ちる髪の無数のライン、語り手が天の川まで向かう道程としてのライン。
いろんなラインがこの句のなかで生成されては明滅し、消えていく。
もしかしたら、これがそうした〈線〉に対する愛情の句なのかなあともおもったりします。
でもその線は天の川から帰ってきても、生きる痕跡としていつまでも語り手の身体に残っていくんですよ。なぜなら、語り手は天の川で前髪をぱっつんしたのだから。
自転車を漕いで白亜紀まで帰る 加藤久子
アンゲロプロス『永遠と一日』(1998)。この映画のなかでこんなセリフがあるんですよ。「明日の時の長さは?」「永遠と一日」。なんで「永遠と一日」なんだろうってずっと不思議なんですよ。永遠だけでいいじゃないかって。でも、倉本さんの句の前髪が切られたあとも伸びつづけるように、ひとには〈永遠〉という観念をどれだけもっても、リアルに生きなければならない観念からズレる時間としての〈一日〉がありますよね。だからどれだけ永遠を知っていても、それでもそこにかならず「一日」が付加されてくるはずなんですよ、生きているかぎり。主人公がもう死んでしまった妻に再会し、「明日の長さは?」ときくと、妻は「永遠と一日」と答える。妻との〈永遠〉を感じながらも、その、これからの、「一日」「一日」「一日」を主人公は、生きなければならない。
【前髪は、旅】
この倉本さんの句で直感的にいいなと感じたのが、ずいぶん遠いところまでライトなことをしにいくんだな、っていうことです。
前髪を切ることって髪を切ることとは違ってライトなことだとおもうんですけど、それを「天の川まで」とかなり遠路はるばる切りにゆく。だからこの「ゆく」っていうところにすごく長い道程があるとおもうんですよね。前髪なんだけれども。
ただ、前髪って絶妙に表情が変わってくるラインだから、「天の川」で切らないとどうしてもその〈表情〉が出せないっていう語り手の思い入れがあるかもしれませんよね。天の川じゃないんとだめなんだっていう。
あともうひとつは、この句が〈線〉というか〈ライン〉の物語になっていることがおもしろいなと思います。
天の川のライン、前髪のライン、ハサミの刃のライン、切られて落ちる髪の無数のライン、語り手が天の川まで向かう道程としてのライン。
いろんなラインがこの句のなかで生成されては明滅し、消えていく。
もしかしたら、これがそうした〈線〉に対する愛情の句なのかなあともおもったりします。
でもその線は天の川から帰ってきても、生きる痕跡としていつまでも語り手の身体に残っていくんですよ。なぜなら、語り手は天の川で前髪をぱっつんしたのだから。
自転車を漕いで白亜紀まで帰る 加藤久子
アンゲロプロス『永遠と一日』(1998)。この映画のなかでこんなセリフがあるんですよ。「明日の時の長さは?」「永遠と一日」。なんで「永遠と一日」なんだろうってずっと不思議なんですよ。永遠だけでいいじゃないかって。でも、倉本さんの句の前髪が切られたあとも伸びつづけるように、ひとには〈永遠〉という観念をどれだけもっても、リアルに生きなければならない観念からズレる時間としての〈一日〉がありますよね。だからどれだけ永遠を知っていても、それでもそこにかならず「一日」が付加されてくるはずなんですよ、生きているかぎり。主人公がもう死んでしまった妻に再会し、「明日の長さは?」ときくと、妻は「永遠と一日」と答える。妻との〈永遠〉を感じながらも、その、これからの、「一日」「一日」「一日」を主人公は、生きなければならない。
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