【感想】あのひとの眼鏡のつるを念力で曲げる女がいるということ 兵庫ユカ
- 2015/11/14
- 00:30
あのひとの眼鏡のつるを念力で曲げる女がいるということ 兵庫ユカ
【左胸に右手を置くと心臓がある】
この兵庫さんの歌のおもしろさのひとつに、〈わたしはいまどこにいるのか〉という問題があるんじゃないかとおもうんです。それはもっといえば、わたしはいまどういう関係のなかにわたしとしているのか、という問題です。
この歌にはすくなくとも三人の人間がでてくる。
「あのひと」と「曲げる女」と「わたし」です。
で、それぞれの呼称「あのひと」や「女」からわかるように、〈わたし〉と微妙な距離感をもっているひとたちです。「あのひと」はあくまで「あのひと」なので彼氏(や彼女)や夫(や妻)ではないらしい。しかも「このひと」でもないので、これだけ「そのひと」のことを考えているのに、「そのひと」は「あのひと」として遠くにいるらしい。
また、「あのひと」と「曲げる女」の距離感というか関係性もちょっとおもしろいですよね。眼鏡のつるを直接曲げればいいのに、「念力で曲げる」ということは、やっぱり離れているんですよ、「あのひと」と「女」も。
だから、上からわかるこの歌の関係的特徴は、だれひとり間近に、肩がふれあうようなまどなりにいるわけではない、っていうことです。
みんな、それぞれが、それぞれのやりかたで、離れている。だけれども、離れているのに、それを歌にする〈わたし〉の「あのひと」への思いや、「女」の「念力」など、距離感のなかで強度のある思いがあちこちに「あのひと」を媒介にしながら錯綜している。「思う/思い」が錯綜していくなかで、弱々しい名詞としての「あのひと」や「女」と「(語るわたし)」の距離感が明滅している。
そういう歌なのではないかとおもうんです。
歌っていうのはいっかいいっかい、そんなふうに〈いまわたしがどこにいて・どこから語っているのか〉をそれとなく密封していくんじゃないかと、おもう。
遠くまで聞こえる迷子アナウンス ひとの名前が痛いゆうぐれ 兵庫ユカ
フェリーニ『甘い生活』(1960)。このフェリーニの〈甘い生活〉っていうのは、情報の洪水のなかで、情報の審級がわからずに、ただただ〈わたし〉の主体の水位が散らかされていく映画なんじゃないかとおもうんです。そしてそれがひとつの〈生活〉として描き出されている。すごく幸福にしていた主人公の親友が次の日、自殺している。そうするとなにが幸福やわたしや人生を審判しているのか、わからない。だから最初にヘリコプターでキリスト像が吊り下げられて運ばれていくのは象徴的だとおもうんです。神様という審級がもはやヘリコプターによってどこにでも移動させられてしまう。じゃあだれがいまのじぶんを承認してくれるのか。ヘリコプターなのか。
【左胸に右手を置くと心臓がある】
この兵庫さんの歌のおもしろさのひとつに、〈わたしはいまどこにいるのか〉という問題があるんじゃないかとおもうんです。それはもっといえば、わたしはいまどういう関係のなかにわたしとしているのか、という問題です。
この歌にはすくなくとも三人の人間がでてくる。
「あのひと」と「曲げる女」と「わたし」です。
で、それぞれの呼称「あのひと」や「女」からわかるように、〈わたし〉と微妙な距離感をもっているひとたちです。「あのひと」はあくまで「あのひと」なので彼氏(や彼女)や夫(や妻)ではないらしい。しかも「このひと」でもないので、これだけ「そのひと」のことを考えているのに、「そのひと」は「あのひと」として遠くにいるらしい。
また、「あのひと」と「曲げる女」の距離感というか関係性もちょっとおもしろいですよね。眼鏡のつるを直接曲げればいいのに、「念力で曲げる」ということは、やっぱり離れているんですよ、「あのひと」と「女」も。
だから、上からわかるこの歌の関係的特徴は、だれひとり間近に、肩がふれあうようなまどなりにいるわけではない、っていうことです。
みんな、それぞれが、それぞれのやりかたで、離れている。だけれども、離れているのに、それを歌にする〈わたし〉の「あのひと」への思いや、「女」の「念力」など、距離感のなかで強度のある思いがあちこちに「あのひと」を媒介にしながら錯綜している。「思う/思い」が錯綜していくなかで、弱々しい名詞としての「あのひと」や「女」と「(語るわたし)」の距離感が明滅している。
そういう歌なのではないかとおもうんです。
歌っていうのはいっかいいっかい、そんなふうに〈いまわたしがどこにいて・どこから語っているのか〉をそれとなく密封していくんじゃないかと、おもう。
遠くまで聞こえる迷子アナウンス ひとの名前が痛いゆうぐれ 兵庫ユカ
フェリーニ『甘い生活』(1960)。このフェリーニの〈甘い生活〉っていうのは、情報の洪水のなかで、情報の審級がわからずに、ただただ〈わたし〉の主体の水位が散らかされていく映画なんじゃないかとおもうんです。そしてそれがひとつの〈生活〉として描き出されている。すごく幸福にしていた主人公の親友が次の日、自殺している。そうするとなにが幸福やわたしや人生を審判しているのか、わからない。だから最初にヘリコプターでキリスト像が吊り下げられて運ばれていくのは象徴的だとおもうんです。神様という審級がもはやヘリコプターによってどこにでも移動させられてしまう。じゃあだれがいまのじぶんを承認してくれるのか。ヘリコプターなのか。
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