【感想】必要か聞いてからするセックスは supplements たぶん海を見ている 兵庫ユカ
- 2015/11/15
- 07:27
必要か聞いてからするセックスは supplements たぶん海を見ている 兵庫ユカ
【アマルガムな語り口】
supplements っていうのは、補足とか補遺っていう意味の単語なので、たぶん、必要かどうか聞いてからするセックスっていうのは、セックスのためのセックスではなくて、セックスの補足や補遺にしかならないセックスなんだってことなんじゃないかとおもうんです(ただこれはあくまでひとつの解釈です)。
でも、ふしぎなのは、語り手が英語を挿入する語りを採用しているところです。たとえば、そういうことを意味したいならば、すべて日本語でいくらでも語ろうとはでいたはずです。
しかも「セックスは supplements」という日本語と英語が混淆し、一体になっている文なんですよね。主語は日本語でかんがえ、述語というか補語は英語でかんがえているということになります(小説や散文体ではなく、もしかしたら歌詞やポップスのアマルガムな語り口に近いのかもしれません)。
で、これはひとつ考えるに、「必要か聞いてからするセックス」への距離感なんじゃないかとおもうんです。日本語と英語の言語の距離感が、認識の距離感としてあらわれてくる。
日本語は読んですぐべたべたと理解できるけれど、個々人の英語経験値にもよるけれど、英語ってすこし時間差で意味がくるとおもうんですね。それはふだん使っていねければ。
で、それっていうのは、わたしたちが日本語の語のシステムのなかにはいるけれど、英語の語のシステムのなかでふだん暮らしていないから、意味を産出する差異をその場で意識してつくらないといけないから意味がすこしおくれてやってくるんだとおもうんですよ。
で、これは〈必要か聞いてからするセックス〉もそうで、「必要か聞いてからするセックス」って語られたときに、それっていったいどういうことなんだろう、必要/不必要でセックスってカテゴライズするものなの? とセックスに対する認識がすこしおくれてやってくるんだとおもうんですよね。
そういう英語が挿入されることによる語り口の特色があるのではないか。
語り手はこの歌の結句で、「たぶん海を見ている」って語っていますよね。「たぶん」という意識のアバウトな感じと、システム化されつつもさまざまな生死のスープがうずまくなかで日々システムが変動する「海」をみている。
システムや時間差でくる認識の補遺は、どこまでつづくんだろう。
春を切ることに手間取るひとたちの They are addicted to themselves. やさしさでしょう 兵庫ユカ
クリス・マルケル『ラ・ジュテ』(1962)。ずっと静止画で語られていく映画なんですが、たったいっかいだけ、ゆいいつその一度だけ、女のひとがとつぜんまばたきをするために〈動く〉なんですよ。で、そこでこの映画は〈静〉と〈動〉の対立に巻き込まれざるをえない。映画のなかで、動かない物語と動く物語が葛藤しはじめる。兵庫さんの歌はよく英語の挿入がなされるんですが、そのとき日本語のべったりした認識と、英語の時間差でくる認識がいつも葛藤しているようにおもうんですね。そういう形式の内側で、形式と形式が葛藤しているものが、ある。それが、〈意味〉や〈読み手〉とどうかかわり、ひとつの意味のスープになっていくのか。
【アマルガムな語り口】
supplements っていうのは、補足とか補遺っていう意味の単語なので、たぶん、必要かどうか聞いてからするセックスっていうのは、セックスのためのセックスではなくて、セックスの補足や補遺にしかならないセックスなんだってことなんじゃないかとおもうんです(ただこれはあくまでひとつの解釈です)。
でも、ふしぎなのは、語り手が英語を挿入する語りを採用しているところです。たとえば、そういうことを意味したいならば、すべて日本語でいくらでも語ろうとはでいたはずです。
しかも「セックスは supplements」という日本語と英語が混淆し、一体になっている文なんですよね。主語は日本語でかんがえ、述語というか補語は英語でかんがえているということになります(小説や散文体ではなく、もしかしたら歌詞やポップスのアマルガムな語り口に近いのかもしれません)。
で、これはひとつ考えるに、「必要か聞いてからするセックス」への距離感なんじゃないかとおもうんです。日本語と英語の言語の距離感が、認識の距離感としてあらわれてくる。
日本語は読んですぐべたべたと理解できるけれど、個々人の英語経験値にもよるけれど、英語ってすこし時間差で意味がくるとおもうんですね。それはふだん使っていねければ。
で、それっていうのは、わたしたちが日本語の語のシステムのなかにはいるけれど、英語の語のシステムのなかでふだん暮らしていないから、意味を産出する差異をその場で意識してつくらないといけないから意味がすこしおくれてやってくるんだとおもうんですよ。
で、これは〈必要か聞いてからするセックス〉もそうで、「必要か聞いてからするセックス」って語られたときに、それっていったいどういうことなんだろう、必要/不必要でセックスってカテゴライズするものなの? とセックスに対する認識がすこしおくれてやってくるんだとおもうんですよね。
そういう英語が挿入されることによる語り口の特色があるのではないか。
語り手はこの歌の結句で、「たぶん海を見ている」って語っていますよね。「たぶん」という意識のアバウトな感じと、システム化されつつもさまざまな生死のスープがうずまくなかで日々システムが変動する「海」をみている。
システムや時間差でくる認識の補遺は、どこまでつづくんだろう。
春を切ることに手間取るひとたちの They are addicted to themselves. やさしさでしょう 兵庫ユカ
クリス・マルケル『ラ・ジュテ』(1962)。ずっと静止画で語られていく映画なんですが、たったいっかいだけ、ゆいいつその一度だけ、女のひとがとつぜんまばたきをするために〈動く〉なんですよ。で、そこでこの映画は〈静〉と〈動〉の対立に巻き込まれざるをえない。映画のなかで、動かない物語と動く物語が葛藤しはじめる。兵庫さんの歌はよく英語の挿入がなされるんですが、そのとき日本語のべったりした認識と、英語の時間差でくる認識がいつも葛藤しているようにおもうんですね。そういう形式の内側で、形式と形式が葛藤しているものが、ある。それが、〈意味〉や〈読み手〉とどうかかわり、ひとつの意味のスープになっていくのか。
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