【短歌】いいひとと…(日経新聞・日経歌壇2015年11月15日・穂村弘 選)
- 2015/11/16
- 05:59
いいひとと呼ばれた夜だ いいひとは終電じゃない電車に乗るよ 柳本々々
(日経新聞・日経歌壇2015年11月15日・穂村弘 選)
もし私の態度をこの両面のどっちかに片づけようとすると、私の心にまた一種の苦悶が起る。私は悪い人を信じたくない。それからまた善い人を少しでも傷つけたくない。そうして私の前に現われて来る人は、ことごとく悪人でもなければ、またみんな善人とも思えない。すると私の態度も相手しだいでいろいろに変って行かなければならないのである。
夏目漱石『硝子戸の中』
食べ物と云えば、いつかBS歌合戦と云うテレビ番組に出たとき、「冷たい御飯と女の子と遊ぶことが大好きな穂村弘さん」と紹介されて恥ずかしかった。事前のアンケートで、好きなものを書けと云われて、確かに「冷たい御飯」も「女の子と遊ぶこと」も書いたけれど、でもその他にも好きな本とか好きな音楽とか色々挙げたはずなのに、それらが全部達磨落しにされて、「冷たい御飯と女の子と遊ぶことが大好きな」私になっていた。あれには驚いた。
穂村弘「生ハムメロン、或いは極彩色の旅」『新星十人』
【女の子と冷たい御飯】
わたしが思う穂村さんの世界観のひとつが、〈冷たい御飯と女の子と遊ぶこと〉と同居する世界なんですね。
それはどんな世界なのかっていうと、たぶん、〈欲望〉が整理されず、散らかったままの世界観だとおもうんです(性欲と食欲が階層化されず並置される世界)。
たとえば、年をかさねることや書くということがある意味においては〈欲望の秩序〉をつくっていくことだとすると、穂村さんは、書きながらぎゃくにその〈秩序〉を散らかしていったようなところがあるのではないかとおもうんです(それはたぶん、冷たい御飯と女の子と遊ぶことが無理なく同居できる定型とも関係しているかもしれない)。
で、ちょっとそうした〈欲望の散らかし方〉っていうのをわたしは漱石にもみているときがあって、漱石も書きながら〈積極的混乱〉を押し進めていったひとのようにおもえるんです。そこには善いひともいなければ、悪いひともいない。ただ〈冷たい御飯と女の子と遊ぶこと〉が同居できるひとたちが、いったりきたりしている空間。
それはもしかしたら〈書くこと/書いてあること/書かれること〉を意識していった結果、とつぜん、〈書く〉という行為から遡行されて出てきた〈女の子と冷たい御飯〉かもしれないけれど、でもそうした〈書くことのふいうち〉のような場所からとつぜん欲望がひっちゃかめっちゃかにされる。そうしたときに、書かれたもののふしぎさが出てくるような気がして。
だから、穂村さんの歌がふしぎなのっていうのは、〈書く〉という行為をとおして、いつもその〈書かれたもの〉から遡行されて、いろんな事物を散らかしていっているからなんじゃないかと、おもうんです。冷たい御飯のように書かれたものが定着しそうになったしゅんかん、その定着をくつがえす女の子がのきなみあらわれる。そのくりかえしが、書くことにまたつながっていく。
うまい歌は全部不思議にみえます。 穂村弘『短歌研究』1992・8
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