【ふしぎな川柳 第二十夜】ずるいね-須藤しんのすけ-
- 2015/11/16
- 08:03
「またね」ってズルイ匂いのする夕日 須藤しんのすけ
私は、いまは一箇の原稿生活者である。旅に出ても宿帳には、こだわらず、文筆業と書いている。苦しさは在っても、めったに言わない。以前にまさる苦しさは在っても私は微笑を装っている。ばか共は、私を俗化したと言っている。毎日、武蔵野の夕陽は、大きい。ぶるぶる煮えたぎって落ちている。私は、夕陽の見える三畳間にあぐらをかいて、侘しい食事をしながら妻に言った。「僕は、こんな男だから出世も出来ないし、お金持にもならない。けれども、この家一つは何とかして守って行くつもりだ」その時に、ふと東京八景を思いついたのである。過去が、走馬燈のように胸の中で廻った。
太宰治「東京八景(苦難の或人に贈る)」
【狡猾と夕日】
夕日ってなんの意味もなく毎日落ちていくものだと思うんですけれど、それを〈ズルさ〉としてとらえているところがおもしろい句だと、おもいます。
ずるい、っておもしろい感触をもった言葉だとおもうんですけど、夕日がじぶんの利益のためにうまくごまかして「またね」とさっと姿を消すような質感なんだとおもうんですよね。
で、夕日から希望を与えられるひとはこれまで夕日のドラマツルギーのなかでいっぱいいたと思うんですが、そうではなくて、夕日という風景のなかに〈狡猾さ〉を見いだしているひとはあんまりいなかったんじゃないかとおもうんです。
で、それってなんなのかというと、〈支配できない風景〉〈利用できない風景〉ってことなんじゃないかなとおもうんです。
たとえば、希望をもって夕日に向かって走っているとき、ひとは夕日を利用しているともいえる。たとえば、そのとき、夕日から「こっちくんな」とは言われないわけです。夕日のダイアローグは、ない。
でもこの句では「またね」って夕日じしんが発話している。利用したくても、夕日じしんがじぶんの意思をもっている。だから、〈ズルイ〉と感じてしまう。
そういう夕日から描き起こす風景があるんじゃないかと。
世界に〈ズルさ〉や〈ムリ〉をみいだしちゃうこと。
もいちどさくらもいちどさくらそれはむり 時実新子
グリーナウェイ『数に溺れて』(1988)。この映画ははじめから終わるまでに画面=世界のあちこちに1から100までの数字がこっそりと隠されているんですよ。ちょっとディズニーランドの隠れミッキーみたいなんだけれど、両者は無関係ともいえないとおもうんですね。映画やテーマパークにおいて、俳優や入園者を主役として〈発話〉させるのではなく、映画やテーマパーク自身が〈発話〉し語り手となり、そこに立ち入った〈わたし〉を〈聴き手化〉すること。それがしんのすけさんの句やグリーナウェイの映画、ディズニーランドにみられることなんじゃないかっておもうんですよ。つまり、〈あっち側〉が声をだしてくることも、ある。
私は、いまは一箇の原稿生活者である。旅に出ても宿帳には、こだわらず、文筆業と書いている。苦しさは在っても、めったに言わない。以前にまさる苦しさは在っても私は微笑を装っている。ばか共は、私を俗化したと言っている。毎日、武蔵野の夕陽は、大きい。ぶるぶる煮えたぎって落ちている。私は、夕陽の見える三畳間にあぐらをかいて、侘しい食事をしながら妻に言った。「僕は、こんな男だから出世も出来ないし、お金持にもならない。けれども、この家一つは何とかして守って行くつもりだ」その時に、ふと東京八景を思いついたのである。過去が、走馬燈のように胸の中で廻った。
太宰治「東京八景(苦難の或人に贈る)」
【狡猾と夕日】
夕日ってなんの意味もなく毎日落ちていくものだと思うんですけれど、それを〈ズルさ〉としてとらえているところがおもしろい句だと、おもいます。
ずるい、っておもしろい感触をもった言葉だとおもうんですけど、夕日がじぶんの利益のためにうまくごまかして「またね」とさっと姿を消すような質感なんだとおもうんですよね。
で、夕日から希望を与えられるひとはこれまで夕日のドラマツルギーのなかでいっぱいいたと思うんですが、そうではなくて、夕日という風景のなかに〈狡猾さ〉を見いだしているひとはあんまりいなかったんじゃないかとおもうんです。
で、それってなんなのかというと、〈支配できない風景〉〈利用できない風景〉ってことなんじゃないかなとおもうんです。
たとえば、希望をもって夕日に向かって走っているとき、ひとは夕日を利用しているともいえる。たとえば、そのとき、夕日から「こっちくんな」とは言われないわけです。夕日のダイアローグは、ない。
でもこの句では「またね」って夕日じしんが発話している。利用したくても、夕日じしんがじぶんの意思をもっている。だから、〈ズルイ〉と感じてしまう。
そういう夕日から描き起こす風景があるんじゃないかと。
世界に〈ズルさ〉や〈ムリ〉をみいだしちゃうこと。
もいちどさくらもいちどさくらそれはむり 時実新子
グリーナウェイ『数に溺れて』(1988)。この映画ははじめから終わるまでに画面=世界のあちこちに1から100までの数字がこっそりと隠されているんですよ。ちょっとディズニーランドの隠れミッキーみたいなんだけれど、両者は無関係ともいえないとおもうんですね。映画やテーマパークにおいて、俳優や入園者を主役として〈発話〉させるのではなく、映画やテーマパーク自身が〈発話〉し語り手となり、そこに立ち入った〈わたし〉を〈聴き手化〉すること。それがしんのすけさんの句やグリーナウェイの映画、ディズニーランドにみられることなんじゃないかっておもうんですよ。つまり、〈あっち側〉が声をだしてくることも、ある。
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