【感想】本屋をめぐる短歌/川柳-ポケットにもつバベル本店-
- 2014/06/28
- 01:48
本屋の書架から当てずっぽうに詩集を抜き出して、ぱらぱらと頁をめくる。また元に戻すか、それともレジへ持って行くか。その瞬間、眼と活字の間に生じる化学反応のような感覚を、ぼくは割合と信じている。世界のほうぼうで、そんな風にして何人かの詩人たちと出会ってきた。
四元康祐『四元康祐詩集』
わたしの好きな句のひとつに矢島玖美子さんの次の句があります。
紀伊國屋書店本店前の鬱 矢島玖美子
この書店=本屋をめぐる短詩型文学についてすこし考えてみようというのが今回の趣旨です。
矢島さんの上の句は、書店のしんどさというのがよく現れています。ロラン・バルトも図書館についてそういっていたように思うんですが、わたしは書店=本屋のしんどさとは、〈非到達性〉にあるのではないかとおもうんですね。書店に入った瞬間、だれもが無意識にかんじとるはずです。わたしは人生を終えるまでにすべての本を読むことはできない、と。つまり、本屋にいくということは、この〈非到達性〉をある種、毎回、握らされることではないかと思うんですね。本屋というのは、逆説的なことですが、本を読ませる可能態として存在しているよりも、むしろ、本が読めないことの不可能態として存在しているのではないかと。だから語り手は、言語化不可能な「鬱」という事態にみまわれてしまったのではないか。しかも「紀伊國屋書店本店」なのでその〈非到達度〉はおそらく全国でトップクラスなはずです。
このような書店の非到達性を迷宮としてとらえた川柳につぎの句があります。
身も蓋もあって書籍店迷路 一戸涼子
この句のおもしろさは、「身も蓋もあって」というところではないかと思います。「身も蓋もない」とはあまりに露骨すぎて情緒も含みもないね、という状態です。ところが「身も蓋もある」のでそれは密閉され、情緒や含みがたくさん詰まっています。しかしそのおびただしい情緒・含みによって語り手は「迷路」にさまよいこんでいます。おそらくそれは書籍そのものの画一的
・隠蔽的形態にもよるのではないかと思います。書籍というのは大小があるもののほとんどが同じ直方体としての形態であるため、わたしたちは〈意味〉によって分節してさぐりし、意味の森をすすんでいかなければなりません。しかしその意味の森のなかを「情緒」や「含み」として、隠蔽的なものとして察知してしまった瞬間、書店は「迷路」になります。あとは、意味のブラックボックスのなかでさまようだけです。
ところがこうしたブラックボックスとしての書店を、もっと外側からとらえているうたもあります。書店をおく空間そのものをブラックボックスとしてとらえるうたです。
本屋っていつも静かに消えるよね死期を悟った猫みたいにさ 木下龍也
ここでは本屋が「猫」とのアナロジーにおかれることで、生命をもった生/死の始原と終焉をもつ生態として描かれています。本屋が生態のように描かれることによって、消えるときはわたしたちとなんの係累ももたず連絡も脈絡ももたず消える本屋のぶきみさとはかなさが描かれています。わたしたちは本屋をたびたび愛しますが、本屋はわたしたちを愛してはいないというドライな愛の非交通も描かれてあるようにおもいます。
もうひとつ、書店閉店のうたをみてみましょう。
西ヶ原書店閉まりて夕焼けを呑みこむ町へ行くのだといふ 石川美南
書店は、ミヒャエル・エンデの『果てしない物語』でもそうであったように、〈異界〉の入り口としての機能も果たします。「夕焼けを呑みこむ町へ行く」という書店にはわたしはそのような此岸から彼岸への越境性があるように思います。ここでは書店のソフトウェア=知の宝庫というよりは、書店そのものが〈ここではない、どこか〉への入り口であるという〈ゲート〉としてのハードウェアたる書店のありようがうたわれているようにおもいます。
また本屋というのは都市文化/都市形成とも密接に結びついています。それを逆手にとったのがつぎのうたです。
孤独死や殺しが稀にあるけれど本屋のでかい良い街ですよ 酒井景二朗
「孤独死や殺しが稀にあ」ったとしても「でかい本屋」があれば「良い街」になるという人間主体よりも都市主体に価値観の比重をみている、そのアイロニーがこのうたのおもしろさなんではないかとおもうんですね。しかも、知識や理性の集積たる本屋が孤独死を防ぐ連帯や殺しをふせぐ情緒の育成に機能していないかんじも描いています。「良い街」とはなんだろうを「でかい本屋」からかんがえるブラックボックスとしての都市を底からさらうようなうただとおもいます。
こうした本屋のぶきみな側面をもっとつきつめると、それは「本屋地獄」というかたちであらわれてきます。
夏蝶の屍(かばね)ひそかにかくし来し本屋地獄の中の一冊 寺山修司
ボルヘスが図書館は死者が充満している空間だといっていましたが、この寺山の短歌も死のイメージでいっぱいです。それでも「夏蝶の屍」を「しおり」にみたてることによってわたしは死のなかに差し込まれた「中途=未完」としての生の息吹がここにはあるのではないかとおもいます。「屍」「地獄」とここには死しかないのですが、しかし「かくす」という語り手の能動的行為はいきづいています。そしてそれは「かくし」てもいずれだれかがひらいてしまうかもしれないという他者の生をも招き寄せています。しおりとは、おそらくそういうものであり、ここにはそうした生のしおりが逆説的なかたちで詠まれているようにもおもいます。
しかし、本屋とはシンプルにいえば、ひとを待つ空間です。待ち合わせをする場所です。そして、ひとを待つだけでなく、じぶんをさがし、じぶんを待つ空間でもあります。じぶんがやってくるのを。
ジーンズの裾上げを待つ15分こころをこめて本屋で待った 斉藤斎藤
斉藤斎藤さんはなぜか〈サイズ〉にまつわるうたがひとつの主題としてあるように思うんですが、わたしはそれは、斉藤斎藤さんの短歌がどこかで〈わたし〉の過不足をテーマにしているからではないかとおもうんですね。だからこそ、〈わたし〉が伸縮する空間、その伸縮を待機する空間を斉藤さんの短歌の語り手は見逃さない。そんなような「待つ」空間としての「本屋」をうたっている〈わたし〉をめぐる短歌のようにおもいます。
最後に「本屋」という与えられる呪文の宝庫を否定することによって、じぶんじしんの呪文にたどりついたあるひとりのひとの文章を引用して終わりにしたいとおもいます。ありがとうございました。閉店です。
あれはまちがいだった。あれはまちがいだった。世界を変えるための呪文を本屋で探そうとしたのはまちがいだった。どこかの誰かが作った呪文を求めたのはまちがいだった。僕は僕だけの、自分専用の呪文を作らなくては駄目だ。
穂村弘『短歌という爆弾』
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