【感想】ともだちに子どもができた「おめでとう」クマの目を縫うようにさみしい 兵庫ユカ
- 2015/11/17
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ともだちに子どもができた「おめでとう」クマの目を縫うようにさみしい 兵庫ユカ
【「さみしい」は可能性の言葉】
さいきん、身体の閾値と言葉の閾値はどう重なり合ったりずれたりするのかを考えていたときに、それは兵庫ユカさんが歌集のなかでずっと展開されていたテーマだったんじゃないかと思い、それで兵庫さんの『七月の心臓』を読み直したりしていました。
今回は、クマの歌です。
たびたび、クマについては考えてきているんですが、クマについていつも思うのは、クマの極端な両義性です。
たとえば、リラックマというクマのキャラクターがいるけれど、ここには〈癒し〉や〈かわいさ〉をもたらすマスコット的なクマがいる。
でもその一方に、北海道のお土産でよくあるような木彫りの熊がある。鮭をくわえた〈荒々しさ〉が特徴的です。リアリスティックにも彫られていますよね。
で、この両義性をごく自然に引き受けているのが記号としての熊だとおもうんです。一義的にベクトル付けができないような記号として熊がある。引き裂かれた価値ベクトルというのでしょうか。
で、兵庫さんのこの短歌のなかの「おめでとう」という言葉って一義的な、ベクトルが強い言葉だとおもうんですね。「ともだちに子どもができた「おめでとう」」とここまではベクトルがしっかりきている。
でもそのあとに「クマ」というベクトルをかきみだすような記号がでてきてから、結語の「さみしい」という「おめでとう」という正の価値観とは反対の負の記号にゆきついている。
「クマの目を縫う」ってどういうことなんだろう、って考えた場合は、それはあちこちに拡散できたはずの〈価値観〉をひとつに束ねて方向づけしなければならないこと、なのではないかとおもうんですよ。多様な価値の縫合というか。
「おめでとう」っていうのは、誕生日、合格、入学、内定、お祝い事、昇進や結婚、出産など、多様な可能性が、たったひとつの〈可能性〉に(少なくともそのしゅんかんは)縫合されるときに使われることばだとおもうんですよ。
でもその「おめでとう」に「クマ」という引き裂かれた記号が対比されてあるんじゃないかとおもうんです。
だから、結語の「さみしい」というのをあらためて考えたときに、「さみしい」っていうことばは、うしなわれたありえたはずの多様な価値観をもういちど〈想起〉するためのことばなんじゃないかとおもうんです。〈おめでとう〉という記号的充足に対し、〈さみしい〉という欠落としての記号的異議申し立てをすること。そのとき、ひとつに束ねられ、多様な価値観が抑圧されてしまった事態そのものを「さみしい」が浮き彫りにしながら、もういちどそれら価値観を「さみしい」という言葉が想い返している。
「さみしい」っていうのはそういうありえた可能性の想起としてあるんじゃないかとおもう。
だから、いろんな正負の価値観を含み込む「クマ」という言葉と「さみしい」という言葉は似ているんじゃないかなっておもうんです。
だからあえてこんなふうに言い切ってみれば、そのひとが潜在的に抱えていた可能性の束っていうのは、「おめでとう」という言葉にではなく、「さみしい」と発話されたときに、わかるのではないか。あなたか、あなたの眼の前のあなたか、あなたとはなんの関係もないあなたが、あなたに関わりつつも「さみしい」とくちにしたときに。
友だちであることもただ永遠に巻いていく蔓のようでさみしい 兵庫ユカ
出崎統『冒険者たち ガンバと7匹のなかま』(1984)。この映画のなかの敵の総大将でもあるイタチのノロイってすごくこわいんですが(大塚周夫が声をあてているが性別はなんと雌)、それはノロイが記号的に一義的だったからだと思うんですよね。ガンバやほかの仲間たちが〈アニメ〉と〈止め絵=劇画〉のあいだをいったりきたりできるアニメ的存在だったのに対して、ノロイっていうのはほとんど不動の〈止め絵=劇画的〉存在だった。そこにはアニメ的なコミックがいっさい存在していなかった。つまり、ガンバとノロイの対立ってそういうジャンル的な敵対だったようにもおもうんです。アニメは劇画に勝てるのかどうか、という。ちなみに出崎アニメにおいては〈止め絵〉は特権的で、たとえば有名な例にアニメ『あしたのジョー』や『エースをねらえ!』『ベルサイユのばら』があります。
【「さみしい」は可能性の言葉】
さいきん、身体の閾値と言葉の閾値はどう重なり合ったりずれたりするのかを考えていたときに、それは兵庫ユカさんが歌集のなかでずっと展開されていたテーマだったんじゃないかと思い、それで兵庫さんの『七月の心臓』を読み直したりしていました。
今回は、クマの歌です。
たびたび、クマについては考えてきているんですが、クマについていつも思うのは、クマの極端な両義性です。
たとえば、リラックマというクマのキャラクターがいるけれど、ここには〈癒し〉や〈かわいさ〉をもたらすマスコット的なクマがいる。
でもその一方に、北海道のお土産でよくあるような木彫りの熊がある。鮭をくわえた〈荒々しさ〉が特徴的です。リアリスティックにも彫られていますよね。
で、この両義性をごく自然に引き受けているのが記号としての熊だとおもうんです。一義的にベクトル付けができないような記号として熊がある。引き裂かれた価値ベクトルというのでしょうか。
で、兵庫さんのこの短歌のなかの「おめでとう」という言葉って一義的な、ベクトルが強い言葉だとおもうんですね。「ともだちに子どもができた「おめでとう」」とここまではベクトルがしっかりきている。
でもそのあとに「クマ」というベクトルをかきみだすような記号がでてきてから、結語の「さみしい」という「おめでとう」という正の価値観とは反対の負の記号にゆきついている。
「クマの目を縫う」ってどういうことなんだろう、って考えた場合は、それはあちこちに拡散できたはずの〈価値観〉をひとつに束ねて方向づけしなければならないこと、なのではないかとおもうんですよ。多様な価値の縫合というか。
「おめでとう」っていうのは、誕生日、合格、入学、内定、お祝い事、昇進や結婚、出産など、多様な可能性が、たったひとつの〈可能性〉に(少なくともそのしゅんかんは)縫合されるときに使われることばだとおもうんですよ。
でもその「おめでとう」に「クマ」という引き裂かれた記号が対比されてあるんじゃないかとおもうんです。
だから、結語の「さみしい」というのをあらためて考えたときに、「さみしい」っていうことばは、うしなわれたありえたはずの多様な価値観をもういちど〈想起〉するためのことばなんじゃないかとおもうんです。〈おめでとう〉という記号的充足に対し、〈さみしい〉という欠落としての記号的異議申し立てをすること。そのとき、ひとつに束ねられ、多様な価値観が抑圧されてしまった事態そのものを「さみしい」が浮き彫りにしながら、もういちどそれら価値観を「さみしい」という言葉が想い返している。
「さみしい」っていうのはそういうありえた可能性の想起としてあるんじゃないかとおもう。
だから、いろんな正負の価値観を含み込む「クマ」という言葉と「さみしい」という言葉は似ているんじゃないかなっておもうんです。
だからあえてこんなふうに言い切ってみれば、そのひとが潜在的に抱えていた可能性の束っていうのは、「おめでとう」という言葉にではなく、「さみしい」と発話されたときに、わかるのではないか。あなたか、あなたの眼の前のあなたか、あなたとはなんの関係もないあなたが、あなたに関わりつつも「さみしい」とくちにしたときに。
友だちであることもただ永遠に巻いていく蔓のようでさみしい 兵庫ユカ
出崎統『冒険者たち ガンバと7匹のなかま』(1984)。この映画のなかの敵の総大将でもあるイタチのノロイってすごくこわいんですが(大塚周夫が声をあてているが性別はなんと雌)、それはノロイが記号的に一義的だったからだと思うんですよね。ガンバやほかの仲間たちが〈アニメ〉と〈止め絵=劇画〉のあいだをいったりきたりできるアニメ的存在だったのに対して、ノロイっていうのはほとんど不動の〈止め絵=劇画的〉存在だった。そこにはアニメ的なコミックがいっさい存在していなかった。つまり、ガンバとノロイの対立ってそういうジャンル的な敵対だったようにもおもうんです。アニメは劇画に勝てるのかどうか、という。ちなみに出崎アニメにおいては〈止め絵〉は特権的で、たとえば有名な例にアニメ『あしたのジョー』や『エースをねらえ!』『ベルサイユのばら』があります。
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