【感想】さくらさくら泪には表面張力 小林苑を
- 2015/11/18
- 00:48
さくらさくら泪には表面張力 小林苑を
これほどいろいろの泣き方があるというのも、おそらくは、わたしが常に誰かに向って泣いているからであり、わたしのこぼす涙の宛名が、常に同じ人物ではないからであろう。 ロラン・バルト『恋愛のディスクール』
憐れんでください、私の神よ! 私の涙ゆえに、私をご覧ください。 バッハ『マタイ受難曲』
【表層への愛】
以前、西原天気さんの、
心より見た目がだいじ扇風機 西原天気
という句を拝見したときに、俳句っていうのはひとつの見方として〈表層〉への配慮が特権化される〈表層文芸=表層文芸〉なのかなっておもったんですね(〈表面〉的だからこそ〈挨拶〉になるし、〈表層〉的だからこそ、ロラン・バルトが愛した)。
「心より見た目がだいじ」という〈表面=表層〉への気遣い。
鴇田智哉さんの句に、
春めくと枝にあたつてから気づく 鴇田智哉
という句があるけれどこれも〈表層=突端〉としての「枝」への気遣いです。〈表層〉にぶつかると、「気づく」。
たとえば、松尾芭蕉でもいい。
古池や蛙飛び込む水の音 松尾芭蕉
わたしはジョン・ケージが森のなかに入ってそこで鹿やキノコと自然音の交響曲をつくったという記述をみるたびにこの芭蕉の句を思い出すんですが、「古池」という表面、かえるが飛び込むまでの「気配」としての表面、水の音という〈水の中〉ではなく振動からくる音波としての表面。そうしたみっつの表面がここにはあらわれているような気がする。
で、苑をさんの句はまさにその俳句における〈表面〉の力が、みなぎっているのではないか。そうした、涙を発見したのではないか。〈表面張力〉以外のなにものでもない涙を(だからそこからさきはないのです。たえず表面から表面に回帰する)。
ちょっと他ジャンルをかんがえてみると、こうした〈表面=表層〉への気遣いをする俳句に対して、たとえば川柳は、存在しなかったはずのグロテスクな深層を構造化するのがうまいような気がするんです。その意味で川柳は〈深層文芸〉なのかなとおもいます。どちらがいいという話ではなくて、〈どこ〉に眼を向けるかなのかなともおもうんです(で、あえていうなら、短歌は575(表層)+77(深層)と自身で構造化する構造なのかなとも)。
苑をさんの句では、涙の〈意味〉ではなく、涙の〈表層=表面〉を、〈み〉ている(その意味でも、「涙」ではなく「泪」=〈目〉という視神経の表面をあらわす漢字が入っているのは象徴的です)。だから、涙をこぼす必要はないし、こぼれる必要も、ない。ロラン・バルトが述べた涙の言説に反して、俳句においては涙は手紙にはならないから。
だから、俳句のなかでは、ひとは泣くひつようは、ない。
菜の花や涙こぼさぬやうわらふ 山下つばさ
バッハ『マタイ受難曲』。バッハのマタイ受難曲では、たとえば歌詞で「わたしの頬に涙がしたたりおちてやまない」などというときには楽譜の音譜がじっさい涙が落ちるような感じで配置されているんですね。だから、バッハもある意味、深層と同時にそうした〈楽譜=表層〉としての気遣いをみせている作品をつくっている。たとえば、バッハは同じ音律があとを追って繰り返されるカノンが有名だけれど、それも歌詞の内容としてはイエスキリストを民衆が裏切るときに意見が付和雷同になって大衆的になるときに、音律がくりかえされるようなカノンになっている。そういう大衆が知らず知らず追随してしまう様態がカノンとしてあらわされている。ちなみにDVDはリヒター指揮とコープマン指揮のものです。リヒター指揮のものは構図演出がワーグナーのような壮大な映画的演出で異様に凝っています。
これほどいろいろの泣き方があるというのも、おそらくは、わたしが常に誰かに向って泣いているからであり、わたしのこぼす涙の宛名が、常に同じ人物ではないからであろう。 ロラン・バルト『恋愛のディスクール』
憐れんでください、私の神よ! 私の涙ゆえに、私をご覧ください。 バッハ『マタイ受難曲』
【表層への愛】
以前、西原天気さんの、
心より見た目がだいじ扇風機 西原天気
という句を拝見したときに、俳句っていうのはひとつの見方として〈表層〉への配慮が特権化される〈表層文芸=表層文芸〉なのかなっておもったんですね(〈表面〉的だからこそ〈挨拶〉になるし、〈表層〉的だからこそ、ロラン・バルトが愛した)。
「心より見た目がだいじ」という〈表面=表層〉への気遣い。
鴇田智哉さんの句に、
春めくと枝にあたつてから気づく 鴇田智哉
という句があるけれどこれも〈表層=突端〉としての「枝」への気遣いです。〈表層〉にぶつかると、「気づく」。
たとえば、松尾芭蕉でもいい。
古池や蛙飛び込む水の音 松尾芭蕉
わたしはジョン・ケージが森のなかに入ってそこで鹿やキノコと自然音の交響曲をつくったという記述をみるたびにこの芭蕉の句を思い出すんですが、「古池」という表面、かえるが飛び込むまでの「気配」としての表面、水の音という〈水の中〉ではなく振動からくる音波としての表面。そうしたみっつの表面がここにはあらわれているような気がする。
で、苑をさんの句はまさにその俳句における〈表面〉の力が、みなぎっているのではないか。そうした、涙を発見したのではないか。〈表面張力〉以外のなにものでもない涙を(だからそこからさきはないのです。たえず表面から表面に回帰する)。
ちょっと他ジャンルをかんがえてみると、こうした〈表面=表層〉への気遣いをする俳句に対して、たとえば川柳は、存在しなかったはずのグロテスクな深層を構造化するのがうまいような気がするんです。その意味で川柳は〈深層文芸〉なのかなとおもいます。どちらがいいという話ではなくて、〈どこ〉に眼を向けるかなのかなともおもうんです(で、あえていうなら、短歌は575(表層)+77(深層)と自身で構造化する構造なのかなとも)。
苑をさんの句では、涙の〈意味〉ではなく、涙の〈表層=表面〉を、〈み〉ている(その意味でも、「涙」ではなく「泪」=〈目〉という視神経の表面をあらわす漢字が入っているのは象徴的です)。だから、涙をこぼす必要はないし、こぼれる必要も、ない。ロラン・バルトが述べた涙の言説に反して、俳句においては涙は手紙にはならないから。
だから、俳句のなかでは、ひとは泣くひつようは、ない。
菜の花や涙こぼさぬやうわらふ 山下つばさ
バッハ『マタイ受難曲』。バッハのマタイ受難曲では、たとえば歌詞で「わたしの頬に涙がしたたりおちてやまない」などというときには楽譜の音譜がじっさい涙が落ちるような感じで配置されているんですね。だから、バッハもある意味、深層と同時にそうした〈楽譜=表層〉としての気遣いをみせている作品をつくっている。たとえば、バッハは同じ音律があとを追って繰り返されるカノンが有名だけれど、それも歌詞の内容としてはイエスキリストを民衆が裏切るときに意見が付和雷同になって大衆的になるときに、音律がくりかえされるようなカノンになっている。そういう大衆が知らず知らず追随してしまう様態がカノンとしてあらわされている。ちなみにDVDはリヒター指揮とコープマン指揮のものです。リヒター指揮のものは構図演出がワーグナーのような壮大な映画的演出で異様に凝っています。
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