【感想】図書館をなににも喩えないままに多くは本を選んで帰る 兵庫ユカ
- 2015/11/18
- 00:59
図書館をなににも喩えないままに多くは本を選んで帰る 兵庫ユカ
雲の底に図書館はある 同僚の会話は遠く木立の向こう 法橋ひらく
【比喩の拒絶】
以前書いたんですが、法橋ひらくさんの歌集には図書館短歌がけっこうたくさんあって、そこではいろんな図書館がいろんなかたちで〈生きられ〉ているんですよ。図書館が図書館以外の生をみつけていく。そういう図書館短歌だったとおもうんですが、この兵庫さんの図書館短歌は「なににも喩えないままに」という〈比喩の拒絶〉としての〈生きられない/生きない図書館〉になっているとおもうんです。
この短歌をみたときに、図書館って想像的な唯心論の場所なのか、それとも現実的な唯物論の場所なのか、ちょっとかんがえたんですね。
少なくとも、この兵庫さんの歌のなかの「図書館」は唯物的な場所であり、喩えを排除する場所であり、「本を選んで帰る」という〈物〉が交換される場所だとおもうんですよ。
で、実は、この感覚っていうのは、図書館がじつは言語のプロパー(供給源)でありながら、言語を疎外する場所としても機能しているんじゃないかっていう図書館の逆説性みたいなのを端的に描いているんじゃないかとおもうんです。
図書館っていうのはもちろんいろんな言説や物語や言葉を教えてくれるところでもあるんだけれど、その一方で、じぶんがこの人生をすべて捧げても読めない言説や物語や言葉があることを教えるのもまた図書館なんですよね。
つまり、図書館に通っていると(この語り手も「多くは」という語りから図書館にたびたび訪れていることがわかります)、言語の可能性を知ると同時に、だんだんと言語の不可能性もわかってくる。言語的挫折というか、言語をいくら愛してもそこには限度があり、あきらめがあることがわかってくる。
図書館にはすべてがあるようにみえて、そのすべてが本や物語を愛するわたしを疎外する。
図書館ってそういう逆説の場所なんじゃないかとおもうんですよ。言語を疎外する。
だからそれに気づかないようにするためには、図書館をなにかに喩え変換するのでなく、こちらからその変換としての喩えを積極的に拒否していくことなのではないか。
だからある意味で、この兵庫さんの図書館短歌は、非図書館短歌にもなっているのかなっておもいます。でも、それは、もしかしたら図書館を愛するあまりかもしれない。だいすきなあまりにそのだいすきなものをみずからセーブするっていうのは、あることだとも、おもうから。十年たってやっと読める本や手紙が、ありますよね。
というよりも、その本や手紙が比喩となるために待たれているのではなくて、ほかならぬ〈待っているわたしじしん〉こそが比喩そのものなのかもしれません。
鳩尾に電話をのせて待っている水なのかふねなのかおまえは 兵庫ユカ
グリーナウェイ『プロスペローの本』(1991)。グリーナウェイの書物への執着が全編にみなぎっている映画なんですが、この映画のなかで出てくるひらけば水があふれる本や鏡の本といった〈魔法の本〉というのはつまりデジタルの本のことだとおもうんですね(つまり、現在で言うならば YouTube)。YouTubeでは時間がわけもなく遡行し、動画をみていくにつれその動画が並べられる規則も個人個人によってどんどん生成され変転していく。ひとつの〈境界のない・喩えようもない図書館〉になっている。その境界のない本や図書館のありかたをグリーナウェイのこの映画やほかの映画でもずっと問いかけているんじゃないかとおもうんです。本の境界って、ほんとうはどこにあるのか。それはおそらく図書館にはもう死んでしまった死者たち(=作家たち)がいっぱいいるのだから死の境界を問うことにもなるでしょう。
雲の底に図書館はある 同僚の会話は遠く木立の向こう 法橋ひらく
【比喩の拒絶】
以前書いたんですが、法橋ひらくさんの歌集には図書館短歌がけっこうたくさんあって、そこではいろんな図書館がいろんなかたちで〈生きられ〉ているんですよ。図書館が図書館以外の生をみつけていく。そういう図書館短歌だったとおもうんですが、この兵庫さんの図書館短歌は「なににも喩えないままに」という〈比喩の拒絶〉としての〈生きられない/生きない図書館〉になっているとおもうんです。
この短歌をみたときに、図書館って想像的な唯心論の場所なのか、それとも現実的な唯物論の場所なのか、ちょっとかんがえたんですね。
少なくとも、この兵庫さんの歌のなかの「図書館」は唯物的な場所であり、喩えを排除する場所であり、「本を選んで帰る」という〈物〉が交換される場所だとおもうんですよ。
で、実は、この感覚っていうのは、図書館がじつは言語のプロパー(供給源)でありながら、言語を疎外する場所としても機能しているんじゃないかっていう図書館の逆説性みたいなのを端的に描いているんじゃないかとおもうんです。
図書館っていうのはもちろんいろんな言説や物語や言葉を教えてくれるところでもあるんだけれど、その一方で、じぶんがこの人生をすべて捧げても読めない言説や物語や言葉があることを教えるのもまた図書館なんですよね。
つまり、図書館に通っていると(この語り手も「多くは」という語りから図書館にたびたび訪れていることがわかります)、言語の可能性を知ると同時に、だんだんと言語の不可能性もわかってくる。言語的挫折というか、言語をいくら愛してもそこには限度があり、あきらめがあることがわかってくる。
図書館にはすべてがあるようにみえて、そのすべてが本や物語を愛するわたしを疎外する。
図書館ってそういう逆説の場所なんじゃないかとおもうんですよ。言語を疎外する。
だからそれに気づかないようにするためには、図書館をなにかに喩え変換するのでなく、こちらからその変換としての喩えを積極的に拒否していくことなのではないか。
だからある意味で、この兵庫さんの図書館短歌は、非図書館短歌にもなっているのかなっておもいます。でも、それは、もしかしたら図書館を愛するあまりかもしれない。だいすきなあまりにそのだいすきなものをみずからセーブするっていうのは、あることだとも、おもうから。十年たってやっと読める本や手紙が、ありますよね。
というよりも、その本や手紙が比喩となるために待たれているのではなくて、ほかならぬ〈待っているわたしじしん〉こそが比喩そのものなのかもしれません。
鳩尾に電話をのせて待っている水なのかふねなのかおまえは 兵庫ユカ
グリーナウェイ『プロスペローの本』(1991)。グリーナウェイの書物への執着が全編にみなぎっている映画なんですが、この映画のなかで出てくるひらけば水があふれる本や鏡の本といった〈魔法の本〉というのはつまりデジタルの本のことだとおもうんですね(つまり、現在で言うならば YouTube)。YouTubeでは時間がわけもなく遡行し、動画をみていくにつれその動画が並べられる規則も個人個人によってどんどん生成され変転していく。ひとつの〈境界のない・喩えようもない図書館〉になっている。その境界のない本や図書館のありかたをグリーナウェイのこの映画やほかの映画でもずっと問いかけているんじゃないかとおもうんです。本の境界って、ほんとうはどこにあるのか。それはおそらく図書館にはもう死んでしまった死者たち(=作家たち)がいっぱいいるのだから死の境界を問うことにもなるでしょう。
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