【感想】「今度は誰の番なんやろな」脇腹を突っつき合って帰りの道を 法橋ひらく
- 2015/11/18
- 01:15
「今度は誰の番なんやろな」脇腹を突っつき合って帰りの道を 法橋ひらく
鴨川で花火しようや誰からとなくはしゃぎ出す師走のドンキ 〃
「バランスを崩したらしい」珍しく伝言ゲームは簡素化されて 〃
【声に導かれて】
ひらくさんの短歌は〈他者のことば〉から始まる歌がおおいのがひとつの特徴なんじゃないかとおもうんですね。
「今度は誰の番なんやろな」、「鴨川で花火しようや」、「バランスを崩したらしい」。
じぶんの頭のなかからイベントや出来事がたちあがるのではなく、とうとつに(思いがけなく)あらわれた他者のことばからイヴェントがたちあがっていく。
だからもちろんそれは自分の頭発信のイヴェントではないから、予期しないイヴェントにもなる。「脇腹を突っつき合って」や「はしゃぎ出す師走のドンキ」や「伝言ゲーム」の簡素化は、思いがけない言葉があってはじめて可能になったはずです。
ここでの思いがけなさとは、つまり、わたしのくちびる以外からその声が発話されたということです。だからたぶんこの歌の他者性は、「」という鍵括弧や、「しようや」の「や」といった声をめぐる記号性にあるんだとおもうんですね。それはあくまで〈じぶん以外の誰かの声〉だった。
それって実は〈短歌のわたし〉を考える際に、けっこう大事なことなんじゃないかともおもうんです。上五の発声をあらかじめ他者が先取りしてしまうこと。そのとき、〈わたし〉の声の位相はどこに向かうのか。
伝言ゲームが思いがけなく「簡素化」されたように、そこにはいままでとはちがった〈わたしの声〉のありかたが関係性のなかで出てくるとおもうんですね。
そういう〈声〉と〈声〉が葛藤ではないかたちで、おたがいが関係しあい共鳴しあいながら、そこにしか生まれえない声をつくっていく、31音定型のなかで。
それが、〈他者の声〉で始まる歌のおもしろさなのではないか。
そして、もちろん、たとえ始めに発した声が自分の声であったとしても、それまでの語りの磁場にのっとって、じぶんじしんの発した言葉が他者(よそもの)化してはじまってしまうこともあるわけです。
「父さんの言葉に嘘はないはずや」チカチカとするテーブルランプ 法橋ひらく
小津安二郎『晩春』(1949)。小津安二郎映画っていつも笠智衆が「へえそうかい」「そう」「そうかね」ってテンポよく返しているのが印象的だと思うんですが、小津映画っていうのはそんなふうに〈語り手〉と〈聞き手〉が《ずいぶん》はっきりと〈区分〉されたうえで、進められていく映画だとおもうんですよ。それはやっぱり小津映画で特徴的な、いつも人物が画面の中央にいて対話しているということとも関わるとおもうんだけれど、声と声がナチュラルに葛藤したり対話したりするではなく、わかりやすく区分したり、《不自然》な対面をつくることで〈声〉と〈声〉が重なり合い、ずれていく様子を描いている。それが父と娘であっても。だから、小津アングルとして有名なローアングルからのカメラの位置も、映画と〈対話しそこねる〉ための非対称的位置取りとして大切なような気がするんですよ。没頭してはならない、凝視してはならない、対話してもならない。「へえそうかい」「そう」「そうかね」の姿勢。
鴨川で花火しようや誰からとなくはしゃぎ出す師走のドンキ 〃
「バランスを崩したらしい」珍しく伝言ゲームは簡素化されて 〃
【声に導かれて】
ひらくさんの短歌は〈他者のことば〉から始まる歌がおおいのがひとつの特徴なんじゃないかとおもうんですね。
「今度は誰の番なんやろな」、「鴨川で花火しようや」、「バランスを崩したらしい」。
じぶんの頭のなかからイベントや出来事がたちあがるのではなく、とうとつに(思いがけなく)あらわれた他者のことばからイヴェントがたちあがっていく。
だからもちろんそれは自分の頭発信のイヴェントではないから、予期しないイヴェントにもなる。「脇腹を突っつき合って」や「はしゃぎ出す師走のドンキ」や「伝言ゲーム」の簡素化は、思いがけない言葉があってはじめて可能になったはずです。
ここでの思いがけなさとは、つまり、わたしのくちびる以外からその声が発話されたということです。だからたぶんこの歌の他者性は、「」という鍵括弧や、「しようや」の「や」といった声をめぐる記号性にあるんだとおもうんですね。それはあくまで〈じぶん以外の誰かの声〉だった。
それって実は〈短歌のわたし〉を考える際に、けっこう大事なことなんじゃないかともおもうんです。上五の発声をあらかじめ他者が先取りしてしまうこと。そのとき、〈わたし〉の声の位相はどこに向かうのか。
伝言ゲームが思いがけなく「簡素化」されたように、そこにはいままでとはちがった〈わたしの声〉のありかたが関係性のなかで出てくるとおもうんですね。
そういう〈声〉と〈声〉が葛藤ではないかたちで、おたがいが関係しあい共鳴しあいながら、そこにしか生まれえない声をつくっていく、31音定型のなかで。
それが、〈他者の声〉で始まる歌のおもしろさなのではないか。
そして、もちろん、たとえ始めに発した声が自分の声であったとしても、それまでの語りの磁場にのっとって、じぶんじしんの発した言葉が他者(よそもの)化してはじまってしまうこともあるわけです。
「父さんの言葉に嘘はないはずや」チカチカとするテーブルランプ 法橋ひらく
小津安二郎『晩春』(1949)。小津安二郎映画っていつも笠智衆が「へえそうかい」「そう」「そうかね」ってテンポよく返しているのが印象的だと思うんですが、小津映画っていうのはそんなふうに〈語り手〉と〈聞き手〉が《ずいぶん》はっきりと〈区分〉されたうえで、進められていく映画だとおもうんですよ。それはやっぱり小津映画で特徴的な、いつも人物が画面の中央にいて対話しているということとも関わるとおもうんだけれど、声と声がナチュラルに葛藤したり対話したりするではなく、わかりやすく区分したり、《不自然》な対面をつくることで〈声〉と〈声〉が重なり合い、ずれていく様子を描いている。それが父と娘であっても。だから、小津アングルとして有名なローアングルからのカメラの位置も、映画と〈対話しそこねる〉ための非対称的位置取りとして大切なような気がするんですよ。没頭してはならない、凝視してはならない、対話してもならない。「へえそうかい」「そう」「そうかね」の姿勢。
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