【感想】中年や意味も分からずいぢくれば 筑紫磐井
- 2015/11/18
- 07:03
中年や意味も分からずいぢくれば 筑紫磐井
【文学における〈中年〉をめぐる】
これから書くのはあくまで〈中年ノート〉で、なにか中年について解き明かしたり、中年を研究するものではありません。
ただ、筑紫さんのこの句ってじぶんにとってはとてもふしぎで、表現や文学における〈中年〉ってなんだろうって考えるときによく思い出している句です(ちなみに文学研究には〈35歳問題〉という研究があって、たしか村上春樹や芥川龍之介がからんできていたとおもいます。芥川が「ぼんやりとした不安」をかかえて自殺したのは35歳だったからです。ちなみに村上春樹の『ノルウェイの森』は〈中年の回想〉で始まる物語です。なぜなんでしょうか)。
で、たまたま原裕さんの〈中年〉の句を歳時記でみつけて、ちょっと〈中年〉についてのノートを書いておこうとおもいました。
〈中年〉に関するふたつの言説をとりあえず引用してみようとおもいます。
私は戦前の文学史を収集し、その叙述パターンを分析したことがある。その際には、文学史記述を人間の一生になぞらえる「人生モデル」が見いだせる一群の文学史記述についてとりあげた。近代文学の歴史を、人の一生に当てはめて解釈、記述してくケースであり、自然主義文学が中年期にあたる。中年期の男性と自然主義という二つの価値がそこでは結びつき、いわば「中年の発見」という事態をそこに見いだすことができないか、と考えた。 和田敦彦『読書の歴史を問う』
漱石の『こころ』の先生も〈中年〉だったんですが、明治末に〈中年〉という主題がどうもあったらしい、ということがわかってきます。明治末の自然主義は〈中年〉を発見していた。または〈中年の恋〉物語が語られながら、異性愛/同性愛/同性社会性を階層=体系化していた。
あまり難しいことを考えなくても、〈中年〉というものがその時代の文化システムと深い関連があることがわかってきます。〈中年〉が語られるとき、その語られる〈中年〉によって背後のシステムが組織されている。
〈中年〉というのはそういうものらしい。
筑紫さんの句はこれはひとつの解釈になるんだけれども、〈中年〉と〈いじくる〉がセットになっているところが面白いとおもうんですね。
もし〈中年〉をいじくることによって、〈中年〉がいじくられることによって、システムや体系が文化的に組織される場合があるならば、それは〈意味がある〉だろう。
でもその〈いじくっ〉ているしゅんかんは、それがなんの〈意味〉なのかは、だれにもわからない。
それはあとで、〈中年〉がすべて〈老年〉を超えてしまうくらいのもっともっとあとで〈歴史的〉にわかることです。
だから〈中年〉は〈意味もわからずいじく〉るしかない。ないんだけれども、でもそうやっていじくられる中年は、社会的に流通している負の価値をもった〈中年像〉とはちがい、ちょっと謎めいているようにもおもうんですよ。
なぞめいているし、発話してもいる。ちょっと〈中年〉につまずいてほしい、と。中年を中年のままにしないでおいてほしい、と。
そこから、また、あたらしい中年像がひらけるような気がする。
中年が華やぐ。同時に、歴史や文化(への視線)が華やぐ。
そういうことが、ある。
中年の華やぐごとく息白し 原裕
エリック・ロメール『獅子座』(1959)。偉大な〈中年〉映画としてこの映画をあげてみたい。なかみは偉大ではなくて、ゆくあてもお金も失った作曲家の中年男性がヴァカンスのパリをずっとぶらぶらするだけの映画なのだが、そのぶらぶらのなかでパリの街や文化がみえてくる。行き場をうしない、ぶらぶらし、かつ、どこにもいけない〈中年〉であるということは、文化軸を横断するということなのだ。なんの特権的存在にもなれずに。で、ロメールには他にもやはりヴァカンス中になんの予定も立てられずに不満をつのらせながら〈ぶらぶら〉する独身女性の『緑の光線』があるのだが、ロメールは中年でも若者でも人物を外へ外へ光の中へと出して〈いじくる〉のが特徴なのかもしれない。
【文学における〈中年〉をめぐる】
これから書くのはあくまで〈中年ノート〉で、なにか中年について解き明かしたり、中年を研究するものではありません。
ただ、筑紫さんのこの句ってじぶんにとってはとてもふしぎで、表現や文学における〈中年〉ってなんだろうって考えるときによく思い出している句です(ちなみに文学研究には〈35歳問題〉という研究があって、たしか村上春樹や芥川龍之介がからんできていたとおもいます。芥川が「ぼんやりとした不安」をかかえて自殺したのは35歳だったからです。ちなみに村上春樹の『ノルウェイの森』は〈中年の回想〉で始まる物語です。なぜなんでしょうか)。
で、たまたま原裕さんの〈中年〉の句を歳時記でみつけて、ちょっと〈中年〉についてのノートを書いておこうとおもいました。
〈中年〉に関するふたつの言説をとりあえず引用してみようとおもいます。
私は戦前の文学史を収集し、その叙述パターンを分析したことがある。その際には、文学史記述を人間の一生になぞらえる「人生モデル」が見いだせる一群の文学史記述についてとりあげた。近代文学の歴史を、人の一生に当てはめて解釈、記述してくケースであり、自然主義文学が中年期にあたる。中年期の男性と自然主義という二つの価値がそこでは結びつき、いわば「中年の発見」という事態をそこに見いだすことができないか、と考えた。 和田敦彦『読書の歴史を問う』
明治四〇年代の〈告白〉の内容は一様ではない。そして、その内容は階層化されており、ジェンダー化されている。「中年の恋」は、こうした体系を生み出しながら、その頂点に君臨している。困難としての異性愛は、同性社会性を下位に繰り込むことで、上位概念として浮上するのである。近代的な性欲が異性愛をモデルに語り始められたときおこっているのは、同性愛の単純な排除ではない。同性愛と明確に分けることのできない濃密な同性社会性が、排除されるのではなく、下位に繰り込まれている。それが共同性を生産し、異性愛を頂点とする場を形成していくのである。
飯田祐子「〈告白〉を微分する」『現代思想 ジェンダー・スタディーズ』
飯田祐子「〈告白〉を微分する」『現代思想 ジェンダー・スタディーズ』
漱石の『こころ』の先生も〈中年〉だったんですが、明治末に〈中年〉という主題がどうもあったらしい、ということがわかってきます。明治末の自然主義は〈中年〉を発見していた。または〈中年の恋〉物語が語られながら、異性愛/同性愛/同性社会性を階層=体系化していた。
あまり難しいことを考えなくても、〈中年〉というものがその時代の文化システムと深い関連があることがわかってきます。〈中年〉が語られるとき、その語られる〈中年〉によって背後のシステムが組織されている。
〈中年〉というのはそういうものらしい。
筑紫さんの句はこれはひとつの解釈になるんだけれども、〈中年〉と〈いじくる〉がセットになっているところが面白いとおもうんですね。
もし〈中年〉をいじくることによって、〈中年〉がいじくられることによって、システムや体系が文化的に組織される場合があるならば、それは〈意味がある〉だろう。
でもその〈いじくっ〉ているしゅんかんは、それがなんの〈意味〉なのかは、だれにもわからない。
それはあとで、〈中年〉がすべて〈老年〉を超えてしまうくらいのもっともっとあとで〈歴史的〉にわかることです。
だから〈中年〉は〈意味もわからずいじく〉るしかない。ないんだけれども、でもそうやっていじくられる中年は、社会的に流通している負の価値をもった〈中年像〉とはちがい、ちょっと謎めいているようにもおもうんですよ。
なぞめいているし、発話してもいる。ちょっと〈中年〉につまずいてほしい、と。中年を中年のままにしないでおいてほしい、と。
そこから、また、あたらしい中年像がひらけるような気がする。
中年が華やぐ。同時に、歴史や文化(への視線)が華やぐ。
そういうことが、ある。
中年の華やぐごとく息白し 原裕
エリック・ロメール『獅子座』(1959)。偉大な〈中年〉映画としてこの映画をあげてみたい。なかみは偉大ではなくて、ゆくあてもお金も失った作曲家の中年男性がヴァカンスのパリをずっとぶらぶらするだけの映画なのだが、そのぶらぶらのなかでパリの街や文化がみえてくる。行き場をうしない、ぶらぶらし、かつ、どこにもいけない〈中年〉であるということは、文化軸を横断するということなのだ。なんの特権的存在にもなれずに。で、ロメールには他にもやはりヴァカンス中になんの予定も立てられずに不満をつのらせながら〈ぶらぶら〉する独身女性の『緑の光線』があるのだが、ロメールは中年でも若者でも人物を外へ外へ光の中へと出して〈いじくる〉のが特徴なのかもしれない。
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