【ふしぎな川柳 第二十二夜】穴(ぞーん)-畑美樹-
- 2015/11/19
- 01:30
れんこんの穴を通っているふたり 畑美樹
【ぞーん、へ】
宮崎駿のアニメって考えてみると〈穴〉が多いようにおもうんですね。
たとえばすぐに思い浮かぶのが、穴のような天空の城ラピュタの管を駆け上る『天空の城ラピュタ』のパズー。或いは『千と千尋の神隠し』でも最初と最後に〈むこう側〉に行くためのトンネルがありました。『カリオストロの城』でもルパンが下水道から城に侵入していたし、『となりのトトロ』でもメイが林の〈穴〉をぬけてトトロにであう。『紅の豚』では孤島にぽっかり空いた穴のなかをポルコは私用の基地としているし、『未来少年コナン』のラオ博士の眼の無いうろとなった左目でもいい。
そういういろんな〈穴〉が宮崎アニメには散在している。行き止まる穴だったり、通過儀礼的な穴だったり、多声的な穴だったり、アジールとしての穴だったり、いろいろするわけです。
畑さんの句に「れんこんの穴」って書いてあるとおり、〈穴〉の重要性っていうのは、その〈穴〉が《どの》カテゴリーに属しているかを《知っている》上で通るなり、向き合うなりすることなんじゃないかとおもうんですよ。
よくわからない《穴》のなかに入っていくということではなくて、《この穴しかない》という状態で、《その穴》に入っていくこと。それが〈穴〉にとっては大事なのではないかとおもうんです。たとえば畑さんの句では「ふたり」は《この》「れんこんの穴」しかないとおもった。それだからこそ《その》「れんこんの穴」によってまた遡行的に「ふたり」は組織しなおされるのです。「れんこんの穴」をとおる「ふたり」として。でなければ、その「ふたり」にはなんの意味も、ない。
だから畑さんの句の「穴」は「れんこんの穴」が大事なのではなくて、「ふたり」が「この穴」は「れんこんの穴」だと《知っている》という事実そのものが大事だとおもうんですよ。それは「ちくわの穴」でも「バームクーヘンの穴」でもだめだった。
そう考えてみると、穴、っていうのは《穴をめぐる状況を引き受ける主体》を必然的にうみだしていくとおもうんです。ルパンも、パズーも、メイも、ポルコも、穴を通り、穴を経験したあとに、状況を、その物語を引き受ける主体になっていった。
ドーナツの穴をどなたも疑わず いわさき楊子
タルコフスキー『ストーカー』(1979)。で、ですね、今まで言ってきたことをくつがえす穴が(つまり、ドーナツの穴を疑うことそのものを映画化したのが)このタルコフスキーの映画の〈ゾーン〉という穴だとおもうんですよ。なんの穴かわからない、なんの組織化もしない、なんの主体もつくらない、なんの儀礼にもならない、意味を生産しない、穴。つまり、それは、穴とさえ名付けることもできない穴(ゾーン)。それが、〈ゾーン〉なんじゃないかとおもうんですよ。とりあえず入ると、〈とりあえず〉が始まる。でもその〈とりあえず〉が説話や物語に続いていかない。〈とりあえず〉がただ断続的につづいていく。
【ぞーん、へ】
宮崎駿のアニメって考えてみると〈穴〉が多いようにおもうんですね。
たとえばすぐに思い浮かぶのが、穴のような天空の城ラピュタの管を駆け上る『天空の城ラピュタ』のパズー。或いは『千と千尋の神隠し』でも最初と最後に〈むこう側〉に行くためのトンネルがありました。『カリオストロの城』でもルパンが下水道から城に侵入していたし、『となりのトトロ』でもメイが林の〈穴〉をぬけてトトロにであう。『紅の豚』では孤島にぽっかり空いた穴のなかをポルコは私用の基地としているし、『未来少年コナン』のラオ博士の眼の無いうろとなった左目でもいい。
そういういろんな〈穴〉が宮崎アニメには散在している。行き止まる穴だったり、通過儀礼的な穴だったり、多声的な穴だったり、アジールとしての穴だったり、いろいろするわけです。
畑さんの句に「れんこんの穴」って書いてあるとおり、〈穴〉の重要性っていうのは、その〈穴〉が《どの》カテゴリーに属しているかを《知っている》上で通るなり、向き合うなりすることなんじゃないかとおもうんですよ。
よくわからない《穴》のなかに入っていくということではなくて、《この穴しかない》という状態で、《その穴》に入っていくこと。それが〈穴〉にとっては大事なのではないかとおもうんです。たとえば畑さんの句では「ふたり」は《この》「れんこんの穴」しかないとおもった。それだからこそ《その》「れんこんの穴」によってまた遡行的に「ふたり」は組織しなおされるのです。「れんこんの穴」をとおる「ふたり」として。でなければ、その「ふたり」にはなんの意味も、ない。
だから畑さんの句の「穴」は「れんこんの穴」が大事なのではなくて、「ふたり」が「この穴」は「れんこんの穴」だと《知っている》という事実そのものが大事だとおもうんですよ。それは「ちくわの穴」でも「バームクーヘンの穴」でもだめだった。
そう考えてみると、穴、っていうのは《穴をめぐる状況を引き受ける主体》を必然的にうみだしていくとおもうんです。ルパンも、パズーも、メイも、ポルコも、穴を通り、穴を経験したあとに、状況を、その物語を引き受ける主体になっていった。
ドーナツの穴をどなたも疑わず いわさき楊子
タルコフスキー『ストーカー』(1979)。で、ですね、今まで言ってきたことをくつがえす穴が(つまり、ドーナツの穴を疑うことそのものを映画化したのが)このタルコフスキーの映画の〈ゾーン〉という穴だとおもうんですよ。なんの穴かわからない、なんの組織化もしない、なんの主体もつくらない、なんの儀礼にもならない、意味を生産しない、穴。つまり、それは、穴とさえ名付けることもできない穴(ゾーン)。それが、〈ゾーン〉なんじゃないかとおもうんですよ。とりあえず入ると、〈とりあえず〉が始まる。でもその〈とりあえず〉が説話や物語に続いていかない。〈とりあえず〉がただ断続的につづいていく。
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