【感想】猫をめぐる短歌/俳句/川柳-定型からあふれるにゃあにゃあ-
- 2014/06/28
- 22:16
〈フォーマ(無害な非真実)〉を生きるよすべとしなさい。それはあなたを、勇敢で、親切で、健康で、幸福な人間にする。
ヴォネガット『猫のゆりかご』
「猫は二次元に対抗できる唯一の三次元だよね」。この多種多様な世界内存在にあって、唯一「萌え」の感情を喚起しうる三次元の存在が猫であるということ。これは猫がなぜ「ぬこ」と呼ばれるのかという問題意識とも共通する、哲学的課題とみなされるべきである。
斎藤環『ユリイカ2010*11』
なんでもない日常で 猫がホトホト歩いていって/ふと立ち止まって/こちらを振り向く時/永遠に縮まらない猫との距離を知ってしまう/撫でても/撫でても/さわっても/さわっても/その距離はあるのだ/猫に時間の流れる
大島弓子「猫に時間の流れる・解説」『猫に時間の流れる』
ふんだんににゃあにゃあしている短詩型文学の猫たちのなかを猫のようにうろうろしてみようというのが今回の文章の趣旨です。
まずは、チェシャ猫のようにゆらめく在/非在の存在としての猫を詠んでいる川柳をみてみます。
ほんとうに居ますか 猫に触れてみる 大西泰世
「触れてみる」という下五で触覚としての身体感覚をだすことによって逆に現象としての猫のようなはかなさがあらわれているとおもうんですよね。いる/いないの「/」にひそむ猫の句だとおもいます。
こんな「/」にひそむ猫川柳もあります。
縊死の木か猫かしばらくわからない 石部明
この句の語り手にとっては「縊死の木」と「猫」が同感覚でとらえられています。これは類似の論理ではなく、縊死と猫、どちらも伸縮するような、感覚の論理としてとらえられた「/」なのではないかとおもうんですね。
そうした生/死の「/」にたたずむ猫短歌としてつぎのうたをみてみましょう。
まどろめば腹に乗りくる猫なりきもう一度抱き荼毘師にわたす 上田英司
「荼毘」とは火葬のことです。お腹に乗ってくる習性をもった生の猫と、まどろめばその身体感覚がよみがえってくる幻想上の死の猫とのあわいのねこが、「まどろみ」のなかであらわれてくる猫短歌だとおもいます。おそらくこの「もう一度」はなんども反復される「もう一度」としてやってくるはずです。
猫と身体感覚に注目してつぎの短歌をみてみます。
雪の日に猫にさわった 雪の日の猫にさわった そっと近づいて 永井祐
「に」と「の」で差異化されるリフレインから語り手のうれしさとそのうれしさを抑圧する「そっと」が効果的なうただとおもうんですが、猫にさわるという身体感覚が「に」と「の」の助辞の差異においてずれてゆく、そういううただとおもうんですね。もしくは「に」から「の」へ助詞が動く過程によってこの猫の具体性・属性が強まり、猫に助詞として接近してゆく語り手のありようが表現されているようにおもいます。
では、こんなふうな言語表現的に猫に接近していくひとを、もしもうしろから眺めていたひとがいたら、という句をみてみましょう。メタ猫の句です。
猫を見る人を見てゐる万愚節 佐藤弓牛
佐藤弓牛(佐藤弓生)さんのこの句は、猫をみるひとをみているというみっつのうしろをもった句です。だから、この語り手の背中をみているひとがいるかもしれないそうした背中のn連鎖もおもわせる句になっているようにおもいます。しかしそれらが万愚節=エイプリルフールでつねに反転してしまうところにもおもしろさがあります。ほんとうは〈だれ〉がみているのか。いや、もっといえばそれは〈ひと〉ではなく〈メタ猫〉ではないのか。
メタ猫からもっとはずんで超越性としての猫をみてみましょう。絶対的な猫、絶対猫です。
絶対に反論できない文法で猫が世界へ手招きをする 片岡聡一
ここでは超越的な猫が屹立することで、言語的挫折が語られています。言語は、ときに猫にまけるのです。そして猫が誘引としての引力としても働いているのがこの句のおもしろさだと思います。猫はもうひとつの世界へのベクトルをもっています。これは、規則的な犬にくらべて、イレギュラーな運動態をもつ猫どくとくのベクトルだとおもいます。
ベクトルとしての猫俳句をみてみましょう。
六月猫が曲つた方へ曲らう 川口重美
とても不安定な定型のありかたによって語り手が猫に誘因されているようすがよくあらわれているようにおもいます。やはりここでの世界の決定権をにぎっているのは猫です。
この逆をいく猫川柳をみてみましょう。
猫よりも先に春へとたどりつく 倉富洋子
ここでは猫がやはり世界の基点とされることによって、猫を追い越してしまうことの意味論的越境が語られています。猫っていうのはこんなふうに意味の境界にたたずむ存在です。
国境も仔猫も軽く踏んじゃって 瀧村小奈生
瀧村さんのこの猫川柳もそうした境界領域でにゃあにゃあ鳴いている猫をうまくあらわしているようにおもいます。でも「国境」というのが緊張感をただよわせています。踏む行為によって境界がうまれるのか、境界によって踏みたくなってしまうのか、奥深い猫川柳です。
そうした猫の曖昧性そのものを詠んだのが次の川柳です。
曖昧に生きてもゆける猫の足 櫟田礼文
いまの瀧村さんの句でちなんでいえば、「猫の足」には国境なんていらないよね、っていうのがこの櫟田さんの猫川柳のおもしろさであるようなきがします。「も」という助辞がけっこう大事ではないかとおもっていて、つまり、こんなこともできるがあんなふうにもいきられるという潜在的可能態としての猫が語られているようにおもうんですね。
つぎは曖昧どころか消失してしまう猫をみてみます。ブラックホールとしての猫です。
消息のわからない雲わからない猫わからないさいごのてがみ やすたけまり
「雲」と「猫」と「さいごのてがみ」が「消息のわからなさ」によって等置されています。この語り手にとってはおそらく「雲」は「猫」であり「猫」は「さいごのてがみ」であり「さいごのてがみ」は「雲」であるというかなしい互換性があるようにおもうんですね。つまり、「さいごのてがみ」もまだ「雲」や「猫」のように息づいたものであること、もしかしたらまた風が吹いて雲や猫のように帰ってくるかもしれないこと、しかし、雲や猫のようにもうにどと会えないかもしれない一回的なものであるかもしれないことが語られているようにおもいます。「さいごのてがみ」のひらがな表記は、漢字変換できないまま空中分解していく様子も語り手が心象としていだいているのかなとさえおもいます。
そうした、さよならと猫の関係をみてみましょう。
色白の仔猫を飼っているらしい 彼女も 彼女と別れた彼も 村上きわみ
村上さんのこの猫短歌は、ひととの別れ、分節が、なぜか別の連鎖によってつながってしまうというふしぎな円環を描いているとおもいます。ひとにはひとのネットワークがありますが、猫には猫のネットワークがある。そうしたネットワークを相対化してゆくようなおもしろさがあります。気になるのは、語り手がなぜそんなことを気にしているかということです。わたしはこんなふうにおもいます。実はこの語り手こそが、ひとではなく、猫のネットワークに属しているからではないかと。
そうした猫のネットワークが犬と交錯する瞬間を描いたつぎのような犬猫俳句があります。
犬入院猫退院の月夜かな 波多野爽波
ネットワークが交錯する瞬間、だれにもきづかないシステムのドラマがあることを詠んでいるところにこの句のおもしろさがあるようにおもいます。そしてそれらを統合しているのは「月夜」であり、「月夜」のもとにやはりたたずんでいる語り手です。
そうした猫ネットワークを描いている猫短歌をもうすこしみてみます。
猫あまた視界をよぎる町並みに住みて二か月 猫マップ描く 永田紅
この語り手もまた猫ネットワークに所属しているにんげんです。しかし、緊張感があるのは、もしかしたらこの語り手は猫ネットワークに所属しているというよりも、実は「猫」だったりするのではないかという緊張感だとおもいます。もし、猫でなかったとしても、猫マップをひとが書き始めるときにひと/猫の境界線とはいったいどこにあるのでしょう。そういった主体と猫の関係をえがいているところにおもしろさがあるようにおもいます。
そうした猫とひとの境界線をテーマにしているのがつぎの川柳です。
猫の目の高さに溜まる人の塵 伊藤紀子
人の塵といったふだんはほとんど視界にはいらないものが、猫の目を世界の中心にすえたとたんに、人の塵も主題化されてしまうという視野の転換がおもしろい猫川柳です。
ひとと猫の関係はたましいや生命としてもあらわれてきます。
たましいが匂うか猫が寄りつかぬ 矢本大雪
たましいの振りかえるとき冬の猫 あざ蓉子
たましいを基点に猫を描いている句ですが、どちらも対照的です。しかし、どちらもおもしろいのは、人対猫ではなく、たましい対猫という図式をえがいているところです。これは、猫がひとのハードウェアではなく、ソフトウェアに降りてくることをあらわしているとおもいます。
私の帽子の匂いは猫の匂い猫と私は似た生命体 那由多
那由多さんのこの短歌はこんどはたましいというソフトウェアとは逆に「生命体」というハードウェアを基点に猫と私の類似が描かれる短歌です。「私の帽子」という私を対象化できる私の付属物が猫と似通うメディアになっているところもおもしろいとおもいます。
「この猫は毒があるから気をつけて」と猫は喋った自分のことを 穂村弘
こんどはひとと猫のアナロジーではなく、猫=猫の自同律(オートノミー)をうたった歌です。おれはくるっている、と語る『不思議の国のアリス』のチェシャ猫のように、この猫も自己言及的円環としてじぶんを語り続けることで言語の迷宮に棲みついているかんじがよくでているふしぎな短歌です。
そうした猫の迷宮性、円環性をあらわす川柳をみてみましょう。
猫消えて鏡の中は木曜日 樋口由紀子
猫と鏡という取り合わせがおもしろいですが、この「木曜日」という時間分節が「猫」が起因になっている点がとりわけてポイントのようにおもいます。猫と鏡が交錯する『鏡の国のアリス』も想起させますが、鏡のなかにもうひとつの世界がある点、また鏡が世界として分節化されることによって独立した時間軸が流れ込んでいる点がおもしろい句だと思います。
時間と猫の関係をすこしみてみたいとおもいます。
未来形 後ろ姿の猫の耳 矢島玖美子
ここでは過ぎ去る猫が過去形ではなく、未来形としてとらえられているところにおもしろさがあるとおもいます。ちなみに矢島さんの川柳にはこんなふうに、ある価値をまったくその逆に反転させるダイナミズムをうたった句がおおいようにおもいます。未来の猫といえばドラえもんですが、「青い猫」の句にはこんな俳句もあります。
水中を青猫とゆく秋の暮 久保純夫
萩原朔太郎の『青猫』をイメージした方がいいかもしれませんが、ドラえもんが国民文化となった現在、水中をゆく青猫からはサブカルチャーの枠組みが侵入する未来の可能性をもったおもしろい句だとおもいます。
ドラえもんといえば、ポケットですが、そうしたポケット=カバンと猫の関係をうたったうたもあります。
永遠よりも少しみじかい旅だから猫よりも少しおもいかばんを 荻原裕幸
猫が重さの基点になっていますが、「猫よりも少しおもいかばん」であることによって〈日常の枠組みにおける重力〉をすこしだけはみでる〈旅〉であることがわかってくるのではないでしょうか。そしてその〈旅〉がもしかしたら猫がもつ自由(フリーダム)をすこしうしなうような旅かもしれないことも〈おもさ〉によって示唆しています。
猫自体が未来に踏み込んでいくこんな俳句もあります。
歩き出す仔猫あらゆる知へ向けて 福田若之
「あらゆる知」というのがポイントだと思うんですが、知識としての知よりももっと原初的・身体的なゼロからの知がここでは詠まれているようにおもうんですね。それは二足方向的な頭が特権化される知ではなくて、四つん這いとしての身体が中央にすえられる仔猫の知です。
それでは猫の部位を詠む短詩をみてみましょう。
猫パンチしかないなんて秋の空 ひとり静
よろこびのびの字を猫が踏んでいる 筒井祥文
ひとり静さんの川柳は「猫パンチ」というポイント・アタックと、「秋の空」という茫漠なひろがりがおもしろい句です。「しかないなんて」というひとり静さんによくみられる語り手のモダリティ=話し方のおもしろさも猫パンチのように効果的なインパクトをもっているようにおもいます。
筒井さんの川柳は、「び」に肉球があたったときの「び」と「ふにゃ」の潜在的な衝突を連想させるところがおもしろいのではないかとおもいます。うえの二句はどちらも肉球のおもしろさ、猫肉球川柳なのではないかとおもうんですね。
そうした猫のふにゃふにゃ感をあらわす俳句と川柳をみてみます。
猫の子のふにやふにやにしてよく走る 大木あまり
ももいろの猫抱きこれからがおぼろ 時実新子
大木さんも時実さんも、猫のふにゃふにゃした曖昧さと、しかし「よく走る」「抱き」としたふにゃふにゃしながらも具対物であるという猫のふにゃらかな両義性がおもしろくよまれているとおもいます。
そうした猫の両義性を多義性からよんだうたをみてみましょう。
完璧な白シャツを着て虹の日のあなたの猫にお触りなさい 堂園昌彦
堂園さんのこの短歌は、「白シャツ」と「虹」の対比が効果的だとおもうんですが、「白シャツ」というのは、フィッツジェラルドの『グレートギャツビー』のギャツビーのタンスにぎっしり詰め込まれたシャツをガールフレンドが眼にして涙するように〈男性的シンボル=性的シンボル〉の表象として描かれたりもします。もちろんここでその枠組みをそのまま使うわけにはいかないんですが、ただ「お触りなさい」という結句からは、わたしは、「完璧な白」から「虹」への色の移行=浸食といったような侵犯としての緊張感がこのうたのおもしろさにあるのではないかとおもいます。もしくは、侵犯したくなるような境界の緊張感をこのうたはかかえているのではないかと。
そうした猫と侵犯の関係はつぎのようにもうたわれています。
猫に降る雪がやんだら帰ろうか 肌色うすい手を握りあう 笹井宏之
さきほどの堂園さんのうたのように笹井さんのうたでも、「雪=白」と「肌色」の対比から結句の「手を握りあう」といった触れる行為にむかうのが興味深いとおもいます。猫はもしかすると侵犯としての境界線を召還するのかもしれません。
たとえばそのようなうたとして、もっとしずかな触れることの緊張感をうたったうたに次のうたがあるのではなかとおもいます。
酔っぱらってきみと揺られる終電に猫の画像を一枚ひらく 鯨井可菜子
この歌でおもしろい点は、「きみも揺られる」というわたしときみとの〈2〉が猫を媒介にして「一枚の画像」への〈1〉へと統合される点です。つまり、潜在的には酔いと猫というメディアを介してきみと通じ合ってしまうかもしれない緊張感をはらんだうたなのではないかとおもいます。終電というのもそうかんがえると、場をあともどりすることができない不可逆のメディアとして緊張感をたたえていることがわかります。揺られているのは電車のせいなのか、酔いのせいなのか、きみといるせいなのか。そういった語り手の緊張感もどことなくあるおもしろさをもったうたです。
先ほどは猫の足に注目しましたが、猫の目や耳をうたった短歌もあります。
北半球じゅうの猫の目いっせいに細められたら春のはじまり 飯田有子
猫に耳みっしり並ぶぬばたまの夜は愉快でやりっぱなしさ 加藤治郎
このふたつの歌では、「いっせいに細められたら」や「みっしり並ぶ」といった全的な修飾を猫にほどこすことによって、猫がいきものというよりはひとつの意味空間=場所(トポス)として機能しています。そうした猫空間が設定されることにより、「春のはじまり」という春としての息吹の祝祭空間が召還されたり、「愉快でやりっぱなし」という祝祭的なカーニヴァル空間がもたらされたりするのがおもしろさかなとおもいます。
そういったカーニヴァルとしての猫、恋猫を詠んだ俳句があります。
恋猫に懐かれ倒るわが遺骨 関悦史
恋猫の恋する猫で押し通す 永田耕衣
どちらも恋猫の熱いベクトルを、関さんの句はわたしがわたしをみているメタな視点から、永田さんの句は、ベクトルをいちばん発揮できる微分的反復によって描いています。
ちなみに猫もりだくさんのこんな俳句もあります。
藪の中に猫あまた居たり春暮るゝ 内田百閒
ねこに来る賀状や猫のくすしより 久保より江
どちらもどこを向いてもねこしかいないというねこに徹した猫俳句だとおもいます。ここには、〈にゃあ〉しかありません。
さいごに、〈いってしまう〉猫、〈さよなら〉をくぐる猫、〈さようなら猫〉を描いた短詩を紹介します。
涅槃図の前をこの世の猫通る 松本澄江
体温計持つと出て行く春の猫 高遠朱音
美しき夜たれ猫の鈴外す 松岡瑞枝
行ったきり帰ってこない猫たちのためにしずかに宗教をする 山中千瀬
猫というのは、〈いる〉ことにも意味があるのですが、〈い〉たのに〈いない〉ことにも強い意味生成をもっているのがわかるのではないかとおもいます。
むしろ、〈いない〉状態が〈いる〉ものとしてわたしたちのまえに屹立してくるのが猫なのではないかとおもうのです。
しかしどんな猫も定型=言語をとおして、またいきかえり、意味の跳躍をし、わたしたちのまえに曖昧さと具体性をもってすりよって来ます。定型とにゃあにゃあの関係性は、言語化しようとしてもしきれないそのにゃあの間隙に、いつまでも猫的なるものとしてただよっているようにおもいます。すなわち、二文字であらわせば、
にゃあ、と。
弔いの猫たちがゆく言語域 柳本々々
「よしよし」と運転手は猫にむかって言ったが、さすがに手は出さなかった。「なんていう名前なんですか?」
「名前はないんだ」
「じゃあいつもなんていって呼ぶんですか?」
「呼ばないんだ」と僕は言った。「ただ存在してるんだよ」
「でもじっとしてるんじゃなくてある意志をもって動くわけでしょ? 意志を持って動くものに名前がないというのはどうも変な気がするな」
「鰯だって意志を持って動いてるけど、誰も名前なんてつけないよ」
「だって鰯と人間とのあいだにはまず気持の交流はありませんし、だいいち自分の名前が呼ばれたって理解できませんよ。そりゃまあ、つけるのは勝手ですが」
「ということは意志を持って動き、人間と気持が交流できてしかも聴覚を有する動物が名前をつけられる資格を持っているということになるのかな」
「そういうことですね」運転手は自分で納得したように何度か肯いた。「どうでしょう、私が勝手に名前をつけちゃっていいでしょうか?」
「全然構わないよ。でもどんな名前?」
「《いわし》なんてどうでしょう? つまりこれまで《いわし》同様に扱われていたわけですから」
「悪くないな」と僕は言った。
「そうでしょ」と運転手は得意そうに言った。
「どう思う?」と僕はガール・フレンドに訊ねてみた。
「悪くないわ」と彼女も言った。「なんだか天地創造みたいね」
「ここに《いわし》あれ」と僕は言った。
「《いわし》、おいで」と運転手は言って猫を抱いた。猫は怯えて運転手の親指をかみ、それからおならをした。
村上春樹『羊をめぐる冒険』
まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうな《みかづき》がかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』
萩原朔太郎「猫」
「お元さあん」と云う悲鳴を聞いたと思ったら、犬ぐらいもある大きな白い猫が、梯子段の途中から、狼鳴きをしながら、そろそろ降りて来て、隣りの部屋に這入って行った。
荒荒しい足音が入り乱れて、女の叫び声と、犬もまだ吠えているらしい、真夜中で、隣りの押入れの中に、女の顔を褞袍で巻いて、そうすると、昨夜から入れてあったんだ、間境(まざかい)の壁に、どしんと何だかぶつかった拍子に、私は寝床の上に跳ね起きた。
内田百閒「白猫」
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