【ふしぎな川柳 第二十三夜】17音の饒舌-川合大祐-
- 2015/11/19
- 07:26
だから、ねえ、祈っているよ、それだけだ、 川合大祐
私はいつも、言いすぎるか言い足りないかなのだ。それが私にはやりきれない、それほど真実をたいせつにしているのだ。 ベケット『モロイ』
続けなくちゃいけない、続けることはできない、続けなくちゃいけない、続けよう、言葉をいわなくちゃいけない、言葉があるかぎりは。 ベケット『名づけえぬもの』
【ベケットのくちびる】
いわさき楊子さんが発行されている『川柳 裸木』3号(2015年11月)から川合さんの一句です。
よく、定型のなかで饒舌は可能なんだろうかって考えているんですが(つまり、17音《しか》しゃべれない、ではなく、17音《より》しゃべれる、という感覚)、ちょっとこの川合さんの句がその感覚に近いかなとおもうんです。
まず、すごく〈のんべんだらり〉とした語り口だとおもうんです。「それだけだ」という語りの内容に反して、非常に語り口は弛緩しているというか、「だから、ねえ、」「~よ」など、あえて〈冗長〉に語っているようにおもうんですね。細かく入る読点(、)もそうですね。
そして、さいごにも読点がついて終わっている。つまり、まだ、語り手は、定型が終わってもしゃべる気でいるってことだとおもうんですよ。
そこからあらためて考えれば「だから」でこの句ははじまっているので、この句がはじまる前から語り手はしゃべりつづけていたことになる。
つまり、しゃべりつづけていて、句がはじまって、句がおわったのに、まだしゃべりつづけようとしている句なんですよ。
だから、この句っていうのは、内容としては〈それだけ〉なんだけれど、形としてはぜんぜん〈それだけ〉を言おうとしていない句なんだとおもうです。これは、定型のなかの饒舌なんじゃないか、と。
この句をみるかぎり、定型でも饒舌は可能なんだなっていうのがわかるんです。定型っていうのは短詩型という名前に反して、じつは〈長すぎる〉ことも、ある。たとえば、黙祷や祈りがほんのわずかな時間であっても、永遠を感じさせるように。
それは、だれが・どこで・どう組織するかという問題だと、おもうんですよ。長さや短さは。長さや。短さは。長さや短さでは。ないから。
そこにある言葉が響く(そこにない) 川合大祐
私は家へはいって、書いた、真夜中だ。雨が窓ガラスを打っている。真夜中ではなかった。雨は降っていなかった。 ベケット『モロイ』
ベケット/串田和美演出『ゴドーを待ちながら』。緒形拳と串田和美のふたりで上演されたゴドーなんですが、緒形拳の顔立ちって〈なにを考えているかわからない〉っていう言語的抑圧の強い顔立ちでそれがとてもゴゴの自身の言語や身体から抑圧されてうずくまって果てはそのまま眠ってしまうかんじによく合っていたんですよ。で、串田さんはひょうひょうとしている(少しずるいが苦悩もする)キャラクターの演技がいつもよく合うと思っているんですが(だから『ファウスト』のメフィストフェレスもとてもよかった)、その串田さんのゴゴも、ゴゴの知性と苦悩と軽快さがでていてとてもよかったんですよ。『ワーニャおじさん』もそうなんだけれど、役者の〈身体〉が声色も含めてもろに前面に出てくる戯曲ってあるとおもうんです。たぶんそれは言語がわだかまるときそのわだかまりを身体が屈折しながら抱えざるをえないからだとおもうんですよ。だから、ふたりがほんとうに待っていたのは、わたしは『桜の園』のロパーヒンがみせていたような〈直立〉だったんじゃないかとおもうんですよ(じっさい、ふたりは首をつりたがる)。
ゾンビだかraaaaaAうまkうタえなiけdもスキだだjたんだキミのこtttttttk 柳本々々
私はいつも、言いすぎるか言い足りないかなのだ。それが私にはやりきれない、それほど真実をたいせつにしているのだ。 ベケット『モロイ』
続けなくちゃいけない、続けることはできない、続けなくちゃいけない、続けよう、言葉をいわなくちゃいけない、言葉があるかぎりは。 ベケット『名づけえぬもの』
【ベケットのくちびる】
いわさき楊子さんが発行されている『川柳 裸木』3号(2015年11月)から川合さんの一句です。
よく、定型のなかで饒舌は可能なんだろうかって考えているんですが(つまり、17音《しか》しゃべれない、ではなく、17音《より》しゃべれる、という感覚)、ちょっとこの川合さんの句がその感覚に近いかなとおもうんです。
まず、すごく〈のんべんだらり〉とした語り口だとおもうんです。「それだけだ」という語りの内容に反して、非常に語り口は弛緩しているというか、「だから、ねえ、」「~よ」など、あえて〈冗長〉に語っているようにおもうんですね。細かく入る読点(、)もそうですね。
そして、さいごにも読点がついて終わっている。つまり、まだ、語り手は、定型が終わってもしゃべる気でいるってことだとおもうんですよ。
そこからあらためて考えれば「だから」でこの句ははじまっているので、この句がはじまる前から語り手はしゃべりつづけていたことになる。
つまり、しゃべりつづけていて、句がはじまって、句がおわったのに、まだしゃべりつづけようとしている句なんですよ。
だから、この句っていうのは、内容としては〈それだけ〉なんだけれど、形としてはぜんぜん〈それだけ〉を言おうとしていない句なんだとおもうです。これは、定型のなかの饒舌なんじゃないか、と。
この句をみるかぎり、定型でも饒舌は可能なんだなっていうのがわかるんです。定型っていうのは短詩型という名前に反して、じつは〈長すぎる〉ことも、ある。たとえば、黙祷や祈りがほんのわずかな時間であっても、永遠を感じさせるように。
それは、だれが・どこで・どう組織するかという問題だと、おもうんですよ。長さや短さは。長さや。短さは。長さや短さでは。ないから。
そこにある言葉が響く(そこにない) 川合大祐
私は家へはいって、書いた、真夜中だ。雨が窓ガラスを打っている。真夜中ではなかった。雨は降っていなかった。 ベケット『モロイ』
ベケット/串田和美演出『ゴドーを待ちながら』。緒形拳と串田和美のふたりで上演されたゴドーなんですが、緒形拳の顔立ちって〈なにを考えているかわからない〉っていう言語的抑圧の強い顔立ちでそれがとてもゴゴの自身の言語や身体から抑圧されてうずくまって果てはそのまま眠ってしまうかんじによく合っていたんですよ。で、串田さんはひょうひょうとしている(少しずるいが苦悩もする)キャラクターの演技がいつもよく合うと思っているんですが(だから『ファウスト』のメフィストフェレスもとてもよかった)、その串田さんのゴゴも、ゴゴの知性と苦悩と軽快さがでていてとてもよかったんですよ。『ワーニャおじさん』もそうなんだけれど、役者の〈身体〉が声色も含めてもろに前面に出てくる戯曲ってあるとおもうんです。たぶんそれは言語がわだかまるときそのわだかまりを身体が屈折しながら抱えざるをえないからだとおもうんですよ。だから、ふたりがほんとうに待っていたのは、わたしは『桜の園』のロパーヒンがみせていたような〈直立〉だったんじゃないかとおもうんですよ(じっさい、ふたりは首をつりたがる)。
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