【ふしぎな川柳 第二十四夜】風の谷のムーミン-樹萄らき-
- 2015/11/19
- 07:45
ナウシカもムーミンもいるここは谷 樹萄らき
【谷の殺人事件】
『川柳裸木』3号からの一句です。
さいきんずっと、岸田今日子がひとりで声をあてている方の(松たか子と段田安則があてているやつもいいと思うけれど)『ムーミンパペットアニメーション』をずっとみかえしいたんですね。
で、みながら考えてたのが、ムーミンってムーミン〈パパ〉やムーミン〈ママ〉が出てきますよね。だから谷の暮らしではあるけれど、たえずファミリー・ロマンスが喚起されてもいるのかなっておもうんですよ。名前が、〈パパ〉や〈ママ〉ですから、かなり原型的な。
で、そうした〈パパ〉や〈ママ〉を不在にして裏返すと『ナウシカ』になるのかなともおもうんですよ。もちろん、裏返しは裏返しなので、〈不在〉のかたちで『ナウシカ』にも〈父〉は〈母〉はずっといるわけです。
で、らきさんの句をみたとき、ああそうか、って思ったんだけれども、この背中合わせのムーミンとナウシカはどちらも〈谷〉に住んでいるんですよね。で、〈谷〉っていうのは象徴的には隔離された空間としての〈箱庭〉だとおもうんですよ。『ナウシカ』ではその谷がトルメキアの侵攻によって破られるかたちで物語がすすんでいくし、ムーミンは谷を出て海へでたときに捕まってしまって、「カバ」として動物園に収容されてしまう。
だから、谷っていうのは、ある価値体系をパッケージングしつつも、外部へとひらいているがゆえに、いつその〈箱庭〉が崩壊するかはわからないリスクもかかえている、そういう場所なんじゃないかとおもうんです。
ムーミンのように家族幻想があっても、ナウシカのように不在の家族幻想でも、そこにはいついかなるときも他者の侵攻が潜在的にはある。でも侵攻されないかぎりは、価値体系は温存されている。
そうなると、ムーミン谷にジャングルの動物たちや火星人やヴァンパイアや黒鬼がきたように、風の谷に巨神兵や王蟲やトルメキアがきたように、価値体系がいかに乱されるかが〈谷の物語〉なのかなっておもうんですね。
もちろんそれはわりと普遍的な物語論的構造なのかもしれないけれど、でも、国でもない、家族でもない、民族でもない、宗教でもない、〈谷〉という地理的枠組みによって価値体系がパッケージングされてあるっていうことがちょっと興味深いことなのかなっておもうんです。
物語や共同体は、いつも〈どの〉枠組みのなかにあるのかという問題。
おいらたちいつも症候群の中 樹萄らき
市川崑『犬神家の一族』(1976)。金田一ってぱっと来て事件を〈解決〉してぱっと帰るひとなんですよ。〈箱庭〉(まさに〈谷〉)のような村なり離島にきて、事件を解決して、去っていく。とくに市川=金田一ではその〈マレビト〉カラーが強調されてるんですね。で、だんだん何度もみているうちに私がおもうのは、これは〈ひとりの履歴のない人間〉の〈挫折〉の物語なんじゃないかといういことです。金田一ってぜんぜん素性とか履歴がわからないんですが、ほとんどの事件はその共同体をめぐる過去の因縁から起こっているんですね。でも金田一にはそういった過去の因縁もなく、また金田一はほとんど事件を防げずにいつも〈しまった!〉という感じで事件を解決している。すべてが終わったあとで〈解決〉ではなく〈解説〉をするのが金田一なんです。だから金田一にとっていつも殺人事件は諦念としてあるんじゃないかとおもうんですよ。そのときにこれは〈履歴をもった共同体〉に対して〈履歴のない人間が負ける〉物語なんじゃないかっておもうんですよ。
【谷の殺人事件】
『川柳裸木』3号からの一句です。
さいきんずっと、岸田今日子がひとりで声をあてている方の(松たか子と段田安則があてているやつもいいと思うけれど)『ムーミンパペットアニメーション』をずっとみかえしいたんですね。
で、みながら考えてたのが、ムーミンってムーミン〈パパ〉やムーミン〈ママ〉が出てきますよね。だから谷の暮らしではあるけれど、たえずファミリー・ロマンスが喚起されてもいるのかなっておもうんですよ。名前が、〈パパ〉や〈ママ〉ですから、かなり原型的な。
で、そうした〈パパ〉や〈ママ〉を不在にして裏返すと『ナウシカ』になるのかなともおもうんですよ。もちろん、裏返しは裏返しなので、〈不在〉のかたちで『ナウシカ』にも〈父〉は〈母〉はずっといるわけです。
で、らきさんの句をみたとき、ああそうか、って思ったんだけれども、この背中合わせのムーミンとナウシカはどちらも〈谷〉に住んでいるんですよね。で、〈谷〉っていうのは象徴的には隔離された空間としての〈箱庭〉だとおもうんですよ。『ナウシカ』ではその谷がトルメキアの侵攻によって破られるかたちで物語がすすんでいくし、ムーミンは谷を出て海へでたときに捕まってしまって、「カバ」として動物園に収容されてしまう。
だから、谷っていうのは、ある価値体系をパッケージングしつつも、外部へとひらいているがゆえに、いつその〈箱庭〉が崩壊するかはわからないリスクもかかえている、そういう場所なんじゃないかとおもうんです。
ムーミンのように家族幻想があっても、ナウシカのように不在の家族幻想でも、そこにはいついかなるときも他者の侵攻が潜在的にはある。でも侵攻されないかぎりは、価値体系は温存されている。
そうなると、ムーミン谷にジャングルの動物たちや火星人やヴァンパイアや黒鬼がきたように、風の谷に巨神兵や王蟲やトルメキアがきたように、価値体系がいかに乱されるかが〈谷の物語〉なのかなっておもうんですね。
もちろんそれはわりと普遍的な物語論的構造なのかもしれないけれど、でも、国でもない、家族でもない、民族でもない、宗教でもない、〈谷〉という地理的枠組みによって価値体系がパッケージングされてあるっていうことがちょっと興味深いことなのかなっておもうんです。
物語や共同体は、いつも〈どの〉枠組みのなかにあるのかという問題。
おいらたちいつも症候群の中 樹萄らき
市川崑『犬神家の一族』(1976)。金田一ってぱっと来て事件を〈解決〉してぱっと帰るひとなんですよ。〈箱庭〉(まさに〈谷〉)のような村なり離島にきて、事件を解決して、去っていく。とくに市川=金田一ではその〈マレビト〉カラーが強調されてるんですね。で、だんだん何度もみているうちに私がおもうのは、これは〈ひとりの履歴のない人間〉の〈挫折〉の物語なんじゃないかといういことです。金田一ってぜんぜん素性とか履歴がわからないんですが、ほとんどの事件はその共同体をめぐる過去の因縁から起こっているんですね。でも金田一にはそういった過去の因縁もなく、また金田一はほとんど事件を防げずにいつも〈しまった!〉という感じで事件を解決している。すべてが終わったあとで〈解決〉ではなく〈解説〉をするのが金田一なんです。だから金田一にとっていつも殺人事件は諦念としてあるんじゃないかとおもうんですよ。そのときにこれは〈履歴をもった共同体〉に対して〈履歴のない人間が負ける〉物語なんじゃないかっておもうんですよ。
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