【感想】約束は《いま・ここ》の反故イワシグモ 小津夜景
- 2015/11/20
- 07:00
約束は《いま・ここ》の反故イワシグモ 小津夜景
アルチュセールが起源の不在を言ったように、いかなる方法論も相対的な価値しか持ちえないのではないでしょうか。 小嶋菜温子『女性作家《現在》』
おふくろよ、わしの宿命のベンディシオン・アルバラドよ、もう百年になるんだいや驚いた、もう百年たったんだ、 光陰矢のごとしというが マルケス『族長の秋』
【長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思い出したに違いない】
約束ってつねに両義性にひきさかれたものだとおもうんですよ。
たとえば、なになにの時間どこどこの場所でお会いしましょうと約束したとする。
で、そのとき先取りしてわたしたちはその時間その場所にいる〈わたし〉を引き受けたことになりますよね。
その約束が履行されるまでは、ずっと未来形の主体をかかえていなければならない。
でも、それは未来形であるがために、果たされない場合もある。その時間その場所にいない《わたし》、未然形の主体もあるわけです。
約束っていうのは、履行されない場合が、つねにある。約束は、約束自身に、裏切られるのです。
だから、約束は、未来形と未然形の主体につねにひきさかれている。
逆にです、《いま・ここ》の主体っていうのは《いま・ここ》によって充実する、自身によって充実する主体なんです。《いま・ここ》と発話するとき、ひとはおそらくいかなるときも《いま・ここ》の渦中にいる。
そして大事なことは、《いま・ここ》でした約束は未来の《そのいま・そのここ》には持っていけないということです。《いま・ここ》は《いま・ここ》によって充実されながらも、次の《いま・ここ》によってひそやかに差異化されていっている。きづかないかたちでどんどん微分化されているのが《いま・ここ》です。
でも、それを暴力的なかたちでまとめあげてしまうこともできる。わたしはきのうと変わっていない、わたしは百年前と変わっていない。でも、たとえばそうした肥大する《いま・ここ》の欺瞞に気がついてしまったのがたとえばマルケスの『百年の孤独』のアウレリャノ家のひとびとであり、やはりマルケスの『族長の秋』の奔放な独裁者です。
だからそのためにひとは〈いま・ここ〉を引き裂く〈約束〉をするのかなとも、おもうんですよ。〈いま・ここ〉を「反故にする」約束を。
〈いま・ここ〉という欺瞞に気がつくために。「イワシグモ」のように微分化されていく〈いま・ここ〉の運動そのものを浮き彫りにするために。
〈いま・ここ〉は反復されるものではあるけれど、〈約束〉は反復しえないものだから。
《もし》のない朝は在らず冬の鷹 小津夜景
私たちが反復の意味を理解するためには、一度語られた言葉が《そこに残っていないかもしれない世界》を創造する必要があるのだ。 阿部公彦『文学を〈凝視する〉』
彼は、予言の先回りをして、自分が死ぬ日とそのときの様子を調べるために、さらにページを飛ばした。しかし、最後の行に達するまでもなく、彼はもはやこの部屋からでるときのないことを知っていた。なぜならばアウレリャーノ・バビロニアが羊皮紙の解読を終えたその瞬間に、この鏡の、すなわち蜃気楼の町は風によってなぎ倒され、人間の記憶が消えてしまうのは明らかだったからだ。また百年の孤独を運命づけられた家系は二度と地上に出現する機会を持ちえぬため、そこに記されていることの一切は、過去と未来を問わず、永遠に反復の可能性はないことが予想されたからだった。 ガルシア=マルケス『百年の孤独』
グエッラ『エレンディラ』(1983)。マルケスが映画化されたものをみたときにちょっと思ったのがマルケスの文学っていったいなんだろうってことだったんですよ。なにかそこにはマルケスが不在のような感じがした。で、考えてみると、たとえばマルケスのもっとも魔術的な部分ってぶっとんだ中身や内容ではなくて、文と文が裂け目もなく喰らいあいながら一文が長文化していくその〈うねり〉なんじゃないかと思うんですよ。つまり、〈語る〉ことそのものがアマルガムというか混淆をうながす装置になっている。〈語り〉そのものがマジックなんですよ。それってたぶん語り手が〈いま・ここ〉に不在だからなんじゃないかとおもうんですね。語り手はいつも複数形であちこちの時空に同時存在している。それがマジック・リアリズムなんじゃないかとも思ったりするんですよ。
アルチュセールが起源の不在を言ったように、いかなる方法論も相対的な価値しか持ちえないのではないでしょうか。 小嶋菜温子『女性作家《現在》』
おふくろよ、わしの宿命のベンディシオン・アルバラドよ、もう百年になるんだいや驚いた、もう百年たったんだ、 光陰矢のごとしというが マルケス『族長の秋』
【長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思い出したに違いない】
約束ってつねに両義性にひきさかれたものだとおもうんですよ。
たとえば、なになにの時間どこどこの場所でお会いしましょうと約束したとする。
で、そのとき先取りしてわたしたちはその時間その場所にいる〈わたし〉を引き受けたことになりますよね。
その約束が履行されるまでは、ずっと未来形の主体をかかえていなければならない。
でも、それは未来形であるがために、果たされない場合もある。その時間その場所にいない《わたし》、未然形の主体もあるわけです。
約束っていうのは、履行されない場合が、つねにある。約束は、約束自身に、裏切られるのです。
だから、約束は、未来形と未然形の主体につねにひきさかれている。
逆にです、《いま・ここ》の主体っていうのは《いま・ここ》によって充実する、自身によって充実する主体なんです。《いま・ここ》と発話するとき、ひとはおそらくいかなるときも《いま・ここ》の渦中にいる。
そして大事なことは、《いま・ここ》でした約束は未来の《そのいま・そのここ》には持っていけないということです。《いま・ここ》は《いま・ここ》によって充実されながらも、次の《いま・ここ》によってひそやかに差異化されていっている。きづかないかたちでどんどん微分化されているのが《いま・ここ》です。
でも、それを暴力的なかたちでまとめあげてしまうこともできる。わたしはきのうと変わっていない、わたしは百年前と変わっていない。でも、たとえばそうした肥大する《いま・ここ》の欺瞞に気がついてしまったのがたとえばマルケスの『百年の孤独』のアウレリャノ家のひとびとであり、やはりマルケスの『族長の秋』の奔放な独裁者です。
だからそのためにひとは〈いま・ここ〉を引き裂く〈約束〉をするのかなとも、おもうんですよ。〈いま・ここ〉を「反故にする」約束を。
〈いま・ここ〉という欺瞞に気がつくために。「イワシグモ」のように微分化されていく〈いま・ここ〉の運動そのものを浮き彫りにするために。
〈いま・ここ〉は反復されるものではあるけれど、〈約束〉は反復しえないものだから。
《もし》のない朝は在らず
私たちが反復の意味を理解するためには、一度語られた言葉が《そこに残っていないかもしれない世界》を創造する必要があるのだ。 阿部公彦『文学を〈凝視する〉』
彼は、予言の先回りをして、自分が死ぬ日とそのときの様子を調べるために、さらにページを飛ばした。しかし、最後の行に達するまでもなく、彼はもはやこの部屋からでるときのないことを知っていた。なぜならばアウレリャーノ・バビロニアが羊皮紙の解読を終えたその瞬間に、この鏡の、すなわち蜃気楼の町は風によってなぎ倒され、人間の記憶が消えてしまうのは明らかだったからだ。また百年の孤独を運命づけられた家系は二度と地上に出現する機会を持ちえぬため、そこに記されていることの一切は、過去と未来を問わず、永遠に反復の可能性はないことが予想されたからだった。 ガルシア=マルケス『百年の孤独』
グエッラ『エレンディラ』(1983)。マルケスが映画化されたものをみたときにちょっと思ったのがマルケスの文学っていったいなんだろうってことだったんですよ。なにかそこにはマルケスが不在のような感じがした。で、考えてみると、たとえばマルケスのもっとも魔術的な部分ってぶっとんだ中身や内容ではなくて、文と文が裂け目もなく喰らいあいながら一文が長文化していくその〈うねり〉なんじゃないかと思うんですよ。つまり、〈語る〉ことそのものがアマルガムというか混淆をうながす装置になっている。〈語り〉そのものがマジックなんですよ。それってたぶん語り手が〈いま・ここ〉に不在だからなんじゃないかとおもうんですね。語り手はいつも複数形であちこちの時空に同時存在している。それがマジック・リアリズムなんじゃないかとも思ったりするんですよ。
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