【ふしぎな川柳 第二十九夜】100000を超える-兵頭全郎-
- 2015/11/21
- 08:01
レフェリーの10万カウント過ぎの声 兵頭全郎
【十万キロの隣人】
『川柳結社ふらすことてん』42号2015年11月からの一句です。
全郎さんの川柳をみていて思うのが、全郎さんの川柳に向かい合うときにたぶんふつうの意味論や記号論では太刀打ちできないというか読み解けないとおもうんですよね。
別の言い方をすれば、全郎さんの川柳っていうのはそういうふうにつくられている川柳だということもできます。
川柳を解釈するひとつの方法にその川柳のなかに〈わたし〉をおいて追体験してみるという方法があるとおもうんですが、全郎さんの川柳はそれができないようになっているんですね。
それがまず全郎さんの川柳のほかの川柳にない特質だとおもいます。
たとえば、
看護士の時間を止めてまた流鏑馬 兵頭全郎
これはこの句を追体験するしないの次元ではないですよね。もちろん無理に体験しようと思えばできるけれど、たぶんその場合、「看護士の時間」や「看護士」と「流鏑馬」の連絡をどう取るかでかなりノイズがでてくるとおもいます。
で、ですね、追体験できないっていうのはどういうことかというと、意味の〈閾値〉を超えているからだとおもうんですよ。
それでいちばん最初にあげた全郎さんの句にもどるんですが、わたしはこの句はひとつの全郎論になっているのではないかとおもうんです。
レフェリーが「10万カウント」すること自体超越的ですが、そこに「過ぎ」とついてますよね。「10万カウント過ぎ」と。で、これは超越的なもののさらにそこの閾値さえも超えるということだとおもうんです。
で、ひとの認識の〈閾値〉を超えるよう組織されているから追体験しがたい、意味論や記号論でたちむかうと意味が読み解けないことがあるということなんじゃないかとおもいます。
つまり、全郎さんの句っていうのは、いつも読み手が〈読み〉を浮き彫りにされているんだとおもうんです。川柳って〈どう〉読めばいいのか、と。
で、文学の基本的な役割のひとつとして、そういった〈読み〉の蒔き直しをたえず働きかけるというのがあるんじゃないかと、おもう。
それは「看護士」と「流鏑馬」ほどに遠い遠い距離なんだけれども、でも実はそれが川柳定型におさまってしまったように、ほんとうにそれはそんなに遠いのかという問題もここにあるようにおもうのです。
監督は詰まり新監督溶ける 兵頭全郎
ちなみに全郎さんにはこんな句もあるんですよ。ある意味で、ひとがふだん使う言語システムの閾値を超えた句です。
3333399996112222511 兵頭全郎
この句を翻訳すると、《それはいけない》ですよね(たとえば、33333はサ行の五番目)。
「いけない」。そう、やっぱり、閾値の問題なのです。
アンゲロプロス『シテール島への船出』(1984)。アンゲロプロス映画でつねに問われているのは、国と国の〈あいだ〉や〈エアスポット〉にいるひとたち、国や歴史の閾値を超えたひとたちはいったい〈どこ〉にいるのかという問題だとおもうんですね。国に歴史に回収されるひとは、いい。でも、どの国にも歴史にも回収できないひとたちがいる。そのときそのひとの〈わたし〉は、そしてそれを語る物語はどうなるのか、という問題が、絶対的に、ある。「私だよ」というセリフとともに故郷に帰ってきた父。でも故郷は彼を拒絶し、かれは仕方なくどの国にも属さない〈海上〉に漂うことになる。そのとき、かれは、〈だれ〉なのか。わたしたちはかれを〈だれ〉としてみればいいのか。
【十万キロの隣人】
『川柳結社ふらすことてん』42号2015年11月からの一句です。
全郎さんの川柳をみていて思うのが、全郎さんの川柳に向かい合うときにたぶんふつうの意味論や記号論では太刀打ちできないというか読み解けないとおもうんですよね。
別の言い方をすれば、全郎さんの川柳っていうのはそういうふうにつくられている川柳だということもできます。
川柳を解釈するひとつの方法にその川柳のなかに〈わたし〉をおいて追体験してみるという方法があるとおもうんですが、全郎さんの川柳はそれができないようになっているんですね。
それがまず全郎さんの川柳のほかの川柳にない特質だとおもいます。
たとえば、
看護士の時間を止めてまた流鏑馬 兵頭全郎
これはこの句を追体験するしないの次元ではないですよね。もちろん無理に体験しようと思えばできるけれど、たぶんその場合、「看護士の時間」や「看護士」と「流鏑馬」の連絡をどう取るかでかなりノイズがでてくるとおもいます。
で、ですね、追体験できないっていうのはどういうことかというと、意味の〈閾値〉を超えているからだとおもうんですよ。
それでいちばん最初にあげた全郎さんの句にもどるんですが、わたしはこの句はひとつの全郎論になっているのではないかとおもうんです。
レフェリーが「10万カウント」すること自体超越的ですが、そこに「過ぎ」とついてますよね。「10万カウント過ぎ」と。で、これは超越的なもののさらにそこの閾値さえも超えるということだとおもうんです。
で、ひとの認識の〈閾値〉を超えるよう組織されているから追体験しがたい、意味論や記号論でたちむかうと意味が読み解けないことがあるということなんじゃないかとおもいます。
つまり、全郎さんの句っていうのは、いつも読み手が〈読み〉を浮き彫りにされているんだとおもうんです。川柳って〈どう〉読めばいいのか、と。
で、文学の基本的な役割のひとつとして、そういった〈読み〉の蒔き直しをたえず働きかけるというのがあるんじゃないかと、おもう。
それは「看護士」と「流鏑馬」ほどに遠い遠い距離なんだけれども、でも実はそれが川柳定型におさまってしまったように、ほんとうにそれはそんなに遠いのかという問題もここにあるようにおもうのです。
監督は詰まり新監督溶ける 兵頭全郎
ちなみに全郎さんにはこんな句もあるんですよ。ある意味で、ひとがふだん使う言語システムの閾値を超えた句です。
3333399996112222511 兵頭全郎
この句を翻訳すると、《それはいけない》ですよね(たとえば、33333はサ行の五番目)。
「いけない」。そう、やっぱり、閾値の問題なのです。
アンゲロプロス『シテール島への船出』(1984)。アンゲロプロス映画でつねに問われているのは、国と国の〈あいだ〉や〈エアスポット〉にいるひとたち、国や歴史の閾値を超えたひとたちはいったい〈どこ〉にいるのかという問題だとおもうんですね。国に歴史に回収されるひとは、いい。でも、どの国にも歴史にも回収できないひとたちがいる。そのときそのひとの〈わたし〉は、そしてそれを語る物語はどうなるのか、という問題が、絶対的に、ある。「私だよ」というセリフとともに故郷に帰ってきた父。でも故郷は彼を拒絶し、かれは仕方なくどの国にも属さない〈海上〉に漂うことになる。そのとき、かれは、〈だれ〉なのか。わたしたちはかれを〈だれ〉としてみればいいのか。
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