【感想】ほとんどが降りてしまった汽車に乗る 笹田かなえ
- 2014/06/30
- 03:26
ほとんどが降りてしまった汽車に乗る 笹田かなえ
【がらがらな、重み】
この笹田さんの句のおもしろさは、修辞の過剰と、しかし意味内容としての空白感にあるようにおもうんです。
この句をみてみると、
(ほとんどが降りてしまった)汽車に乗る
と、上5中7すべてが「汽車」の修辞になっています。つまりそれだけこの「汽車」は句のなかでたくさんの修辞を積載しています。
ところがこの修辞の意味内容に注目してみると、「ほとんどが降りてしまった」ということで〈空(から)〉だということがわかるんですね。
だから、このような〈空(から)〉としての空間にむしろ語り手は〈重荷〉を感じているのだという逆説的な意識がうかがえるのではないでしょうか。
それはシンプルにいえば、「みんながゆかないところにゆくじぶん」かもしれません。でもそうした逆説の意識を、修辞とその修辞の積載量であらわしているところにこの句のおもしろさがあるようにおもいます。
ちなみに笹田さんの句にはこうした〈設定そのものの重さを感じる〉語り手というテーマがうかがえるようにもおもうんですね。
くらやみにも馴れてくちびるをはずす
如月のどこを押しても開かずの間
湖のちかくでひろうくすりびん
折鶴をほどく自由にしてあげる
たとえばうえの句では、「くらやみ」「如月」「湖のちかく」「折鶴」といった感覚・時間・場所・形態としての設定のなかで語り手がそれでも〈どう〉動けるか、〈なに〉をみつけられるのか、〈なに〉ができなかったのか、という設定に対する相関的な語り手の運動態がうかがえるようにもおもいます。これは〈設定〉あってこそ、語り手が〈発見〉できた、〈到達〉できたものじゃないかとおもうんですね。
笹田さんは『新世紀の現代川柳20人集』において連作のタイトルを「プルタブ」とされているんですが、「プルタブ」という缶のふたを開けること、ということはまず缶としての世界観があって、その缶のプルタブを引いて語り手がその缶=世界観のなかに入ってゆくこと。そうした語り手の意識が連作タイトルにもうかがえるようにおもいます。そして、プルタブを引けばそこには「条件つき」で「空」があらわれる場合だってあるのです。それはおそらく語り手だけがかんじることのできた空です。
屋上に条件つきの空がある 笹田かなえ
【がらがらな、重み】
この笹田さんの句のおもしろさは、修辞の過剰と、しかし意味内容としての空白感にあるようにおもうんです。
この句をみてみると、
(ほとんどが降りてしまった)汽車に乗る
と、上5中7すべてが「汽車」の修辞になっています。つまりそれだけこの「汽車」は句のなかでたくさんの修辞を積載しています。
ところがこの修辞の意味内容に注目してみると、「ほとんどが降りてしまった」ということで〈空(から)〉だということがわかるんですね。
だから、このような〈空(から)〉としての空間にむしろ語り手は〈重荷〉を感じているのだという逆説的な意識がうかがえるのではないでしょうか。
それはシンプルにいえば、「みんながゆかないところにゆくじぶん」かもしれません。でもそうした逆説の意識を、修辞とその修辞の積載量であらわしているところにこの句のおもしろさがあるようにおもいます。
ちなみに笹田さんの句にはこうした〈設定そのものの重さを感じる〉語り手というテーマがうかがえるようにもおもうんですね。
くらやみにも馴れてくちびるをはずす
如月のどこを押しても開かずの間
湖のちかくでひろうくすりびん
折鶴をほどく自由にしてあげる
たとえばうえの句では、「くらやみ」「如月」「湖のちかく」「折鶴」といった感覚・時間・場所・形態としての設定のなかで語り手がそれでも〈どう〉動けるか、〈なに〉をみつけられるのか、〈なに〉ができなかったのか、という設定に対する相関的な語り手の運動態がうかがえるようにもおもいます。これは〈設定〉あってこそ、語り手が〈発見〉できた、〈到達〉できたものじゃないかとおもうんですね。
笹田さんは『新世紀の現代川柳20人集』において連作のタイトルを「プルタブ」とされているんですが、「プルタブ」という缶のふたを開けること、ということはまず缶としての世界観があって、その缶のプルタブを引いて語り手がその缶=世界観のなかに入ってゆくこと。そうした語り手の意識が連作タイトルにもうかがえるようにおもいます。そして、プルタブを引けばそこには「条件つき」で「空」があらわれる場合だってあるのです。それはおそらく語り手だけがかんじることのできた空です。
屋上に条件つきの空がある 笹田かなえ
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