【感想】忘れられやすい去りかた企てる いわさき楊子
- 2015/11/24
- 06:00
忘れられやすい去りかた企てる いわさき楊子
よしや人情を写せばとて、其皮相のみを写したるものは、未だこれを真の小説といふべからず。其骨随を穿つに及びて、はじめて小説たるを見るなり 坪内逍遥『小説神髄』
【企てられたさようなら】
いわさきさんの句集『らしきものたち2014』からの一句です。
川柳は〈さよならの文芸〉なんじゃないか、と以前ちらっと書いたんですが、それは川柳がほかの文芸とはちがったかたちで〈私性〉を模索しているからなんじゃないかとおもうんです。
〈さよなら〉と〈私性〉って実は親しいようにも思うんです。この句では「去りかた」となっているけれど、いろんな「去りかた」のなかにそれぞれの〈私性〉があらわれてくる。たとえばこの句の語り手なら、ふたつの〈私性〉があって、まず①「忘れられやすい」ようにすること、そしてそれを②「企てる」ことです。
じゃあ〈私性〉ってなんだろうって考えたときにそれはたとえば「さよなら」のような普遍形式を個人的に《どう》ズラすか、というところから出てくるものなのではないかとおもうのです。
たとえば坪内逍遥は近代小説を準備しようとした『小説神髄』のなかで、小説とは写実だ、といったけれど、〈写実〉ということは、それまである枠組みを借りないで、あるいは借りざるをえない状況のなかで、〈いま・ここ〉を写そうとするのが写実ですから、当然枠組みが〈ズレ〉るわけです。
「さよなら」という普遍形式があっても、いま・ここのお別れを写実するなら、めいめいでズレていく。そのズレのなかに〈わたし〉が派生していくようにおもうんです。
もちろん、それは「〈わたし〉らしきもの・たち」であって、つぎのしゅんかん、〈わたし〉を超えているのかもしれないけれど、でもそうした〈ズレ〉も含めて〈私性〉ではないかともおもう。
だから坪内逍遥は近代小説や近代的な〈わたし〉を志向しながらノイズを見つけられずむし二葉亭四迷が『浮雲』を書きつつ、挫折しつつ、ノイズを見出していったように思うのだけれど、どこにノイズをみつけるかということが〈私性〉と関係してくるんじゃないかとおもうんです。スッと入るのではなくて。
スッと入ったものは抜けない いわさき楊子
任天堂/糸井重里『MOTHER』(1989)。ゲームのなかの〈さよなら〉を考えたときに、たとえばドラゴンクエストやファイナルファンタジーといったRPGは敵を〈倒した〉だったのだけれど、『マザー』は、敵が〈おとなしくなった〉だったんですよ。で、それまでの敵を駆逐していある意味では植民地主義的な父性原理から、敵を消滅させずに敵は敵でそのままにしながら〈おとなしくさせる〉母性原理をはじめてゲームに導入したのが『マザー』だったのではないかとおもうんです。倒す、というかたちではないことをさぐる。強大な敵にたいして、祈ったり、歌ったり。
よしや人情を写せばとて、其皮相のみを写したるものは、未だこれを真の小説といふべからず。其骨随を穿つに及びて、はじめて小説たるを見るなり 坪内逍遥『小説神髄』
【企てられたさようなら】
いわさきさんの句集『らしきものたち2014』からの一句です。
川柳は〈さよならの文芸〉なんじゃないか、と以前ちらっと書いたんですが、それは川柳がほかの文芸とはちがったかたちで〈私性〉を模索しているからなんじゃないかとおもうんです。
〈さよなら〉と〈私性〉って実は親しいようにも思うんです。この句では「去りかた」となっているけれど、いろんな「去りかた」のなかにそれぞれの〈私性〉があらわれてくる。たとえばこの句の語り手なら、ふたつの〈私性〉があって、まず①「忘れられやすい」ようにすること、そしてそれを②「企てる」ことです。
じゃあ〈私性〉ってなんだろうって考えたときにそれはたとえば「さよなら」のような普遍形式を個人的に《どう》ズラすか、というところから出てくるものなのではないかとおもうのです。
たとえば坪内逍遥は近代小説を準備しようとした『小説神髄』のなかで、小説とは写実だ、といったけれど、〈写実〉ということは、それまである枠組みを借りないで、あるいは借りざるをえない状況のなかで、〈いま・ここ〉を写そうとするのが写実ですから、当然枠組みが〈ズレ〉るわけです。
「さよなら」という普遍形式があっても、いま・ここのお別れを写実するなら、めいめいでズレていく。そのズレのなかに〈わたし〉が派生していくようにおもうんです。
もちろん、それは「〈わたし〉らしきもの・たち」であって、つぎのしゅんかん、〈わたし〉を超えているのかもしれないけれど、でもそうした〈ズレ〉も含めて〈私性〉ではないかともおもう。
だから坪内逍遥は近代小説や近代的な〈わたし〉を志向しながらノイズを見つけられずむし二葉亭四迷が『浮雲』を書きつつ、挫折しつつ、ノイズを見出していったように思うのだけれど、どこにノイズをみつけるかということが〈私性〉と関係してくるんじゃないかとおもうんです。スッと入るのではなくて。
スッと入ったものは抜けない いわさき楊子
任天堂/糸井重里『MOTHER』(1989)。ゲームのなかの〈さよなら〉を考えたときに、たとえばドラゴンクエストやファイナルファンタジーといったRPGは敵を〈倒した〉だったのだけれど、『マザー』は、敵が〈おとなしくなった〉だったんですよ。で、それまでの敵を駆逐していある意味では植民地主義的な父性原理から、敵を消滅させずに敵は敵でそのままにしながら〈おとなしくさせる〉母性原理をはじめてゲームに導入したのが『マザー』だったのではないかとおもうんです。倒す、というかたちではないことをさぐる。強大な敵にたいして、祈ったり、歌ったり。
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