【ふしぎな川柳 第三十夜】どどどどどどどどど-小池正博-
- 2015/11/24
- 12:00
襖絵の檜がどどどっと倒れる 小池正博
家娘(いへむすめ)電話に出むとどどどどと階段くだる象かとおもふ 小池光
【擬音ハイパークリエイターになるために】
石田柊馬さんが小池さんの句集のタイトルになぞらえて小池さんの川柳をこんなふうに評されているんですね。
『水牛の余波』という小池の句集の表題が近景と遠景と意識の及ぶ時間を示唆しており、遠近の双方が響き合う手法に、伝統的な問答体の書き方が活かされている。 石田柊馬『川柳木馬146』
で、すごく納得したんですが、この柊馬さんの指摘を読んで気がついたのが、語り手は「水牛の余波」と語ることによって「水牛」ではなく、あくまで「余波」の方に興味をもっている、ということです。ただもちろん「余波」ですから、そこには「水牛」も(水牛)の形で含まれています。水牛がいなければ生まれなかったものなので。ですが、余波は余波であり、そこに水牛はいません。
そうした柊馬さんが指摘されていた「遠近」がここには端的にあらわれているんですが、この「どどど」という擬音にもそれはよくあらわれているようにおもうんですよね。
「どどど」という擬音はなにかが〈むこう側〉から〈こちら側〉にやってくるときの擬音なのではないかとおもうんですよ。
上の小池さんの句の「どどど」には、絵のなかで倒れている「檜」がみているこの〈わたし〉にせまっている感じを与えています。それは理屈ではないし、描写でもない。音と地響きと可傷性が混合された「どどど」です(ひのきがわたしに倒れてきて傷つくかもしれませんね)。
で、そのときに、小池光さんの「どどど」の歌を思い出したんですよ。よくそういえば階段を駆け下りる音を一階できくときに「どどど」って音がしますよね。
「どどど」にはこうした遠近が一気呵成に縮減されるようすを肉感的にあらわす効果があるようにおもうんですよ。それは向こう側でもない。こちら側でもない。遠近が混淆しアマルガムとなったところで「どどど」と鳴っている。
そしてこのすべてをアマルガム化するどどどを文学として応用したのが擬音のアーティストでもある宮沢賢治でした。
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
宮沢賢治「風の又三郎」
杉井ギサブロー『銀河鉄道の夜』(1985)。この宮沢賢治の原作をなぜ猫たちが〈演じる〉のかという問題がこのアニメにはえるように思うんですよね。で、考えてみると、猫っていうのはひとつの他者化というか、認識を変圧させる装置になっているとおもうんです。これはそのままにんげんの感覚でにんげんの身体でにんげんの習性で受容する世界ではない。ねこの感覚でねこの身体でねこの習性で、よそものの受容として感覚する世界だと。で、それが、宮沢賢治の擬音感覚にも通じているようにおもいます。擬音っていうのはそれは発明さえずれば言語的よそものになるので。
家娘(いへむすめ)電話に出むとどどどどと階段くだる象かとおもふ 小池光
【擬音ハイパークリエイターになるために】
石田柊馬さんが小池さんの句集のタイトルになぞらえて小池さんの川柳をこんなふうに評されているんですね。
『水牛の余波』という小池の句集の表題が近景と遠景と意識の及ぶ時間を示唆しており、遠近の双方が響き合う手法に、伝統的な問答体の書き方が活かされている。 石田柊馬『川柳木馬146』
で、すごく納得したんですが、この柊馬さんの指摘を読んで気がついたのが、語り手は「水牛の余波」と語ることによって「水牛」ではなく、あくまで「余波」の方に興味をもっている、ということです。ただもちろん「余波」ですから、そこには「水牛」も(水牛)の形で含まれています。水牛がいなければ生まれなかったものなので。ですが、余波は余波であり、そこに水牛はいません。
そうした柊馬さんが指摘されていた「遠近」がここには端的にあらわれているんですが、この「どどど」という擬音にもそれはよくあらわれているようにおもうんですよね。
「どどど」という擬音はなにかが〈むこう側〉から〈こちら側〉にやってくるときの擬音なのではないかとおもうんですよ。
上の小池さんの句の「どどど」には、絵のなかで倒れている「檜」がみているこの〈わたし〉にせまっている感じを与えています。それは理屈ではないし、描写でもない。音と地響きと可傷性が混合された「どどど」です(ひのきがわたしに倒れてきて傷つくかもしれませんね)。
で、そのときに、小池光さんの「どどど」の歌を思い出したんですよ。よくそういえば階段を駆け下りる音を一階できくときに「どどど」って音がしますよね。
「どどど」にはこうした遠近が一気呵成に縮減されるようすを肉感的にあらわす効果があるようにおもうんですよ。それは向こう側でもない。こちら側でもない。遠近が混淆しアマルガムとなったところで「どどど」と鳴っている。
そしてこのすべてをアマルガム化するどどどを文学として応用したのが擬音のアーティストでもある宮沢賢治でした。
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
宮沢賢治「風の又三郎」
杉井ギサブロー『銀河鉄道の夜』(1985)。この宮沢賢治の原作をなぜ猫たちが〈演じる〉のかという問題がこのアニメにはえるように思うんですよね。で、考えてみると、猫っていうのはひとつの他者化というか、認識を変圧させる装置になっているとおもうんです。これはそのままにんげんの感覚でにんげんの身体でにんげんの習性で受容する世界ではない。ねこの感覚でねこの身体でねこの習性で、よそものの受容として感覚する世界だと。で、それが、宮沢賢治の擬音感覚にも通じているようにおもいます。擬音っていうのはそれは発明さえずれば言語的よそものになるので。
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