【ふしぎな川柳 第三十一夜】ああ鬼だ-中村冨二-
- 2015/11/24
- 12:30
立ち上がると 鬼である 中村冨二
二百とは脱げてしまった靴である 榊陽子
【二百とは鬼である】
短詩のなかの「デアル形」ってちょっとふしぎなんですね。
「である」っていうのは〈断定〉ですから、まずそう言われてしまったらこちらが何かを切り返す余裕がないという質感があります。
たとえば榊さんの句で「である」と言われてしまったので「二百ってなんですか?」と聞く余裕はありません。それはわたしたちが自分で考えなければいけない問題になります。語り手は断定して、終わったのですから。
受験現代文の解法に、評論を読む際、である/のであるにマークさせるというものがありますが、それは筆者の結論主張がもろに出てくるからですよね。それが文章の主旨なり要旨なりになってくるわけです。
ですから、冨二の句も、榊さんの句も、それまでのおおきな長いプロセスがあったはずなんですよ。いや、「である」といわれると感覚的にわたしたちはそこにたどりつくまでの長いプロセスを無意識に想定しているはずなんです。
ところが冨二も榊さんもそうした長いプロセスをあえて無視して、とつぜん「である」で読み手を殴りつけようとする。榊さんの句なら「二百」を説明しないことや「二百」を読み手に丸投げすることがここでは「である的暴力性」になって、この句のおもしろさになっているとおもうんですよね。
で、冨二だともっと強いパンチというか、「立ち上がると」なので、語り手ももしかしたらうすうす知ってはいたけれどいま気がついた、そして断定した「である」なんですよ。だからここにはたぶん〈認識の暴力〉もあるんじゃないかとおもう。
つまり、鬼でない可能性を語り手は棄却したんですよ。即断=速断したというか、独断で。
だから、「である」っていうのは実は〈認識の暴力〉であり、その〈暴力〉を読み手にくりだしていくことなんじゃないかとおもうんですよ。
だから『吾輩は猫である』って、実は〈認識の暴力〉の物語なんじゃないかとおもうんです。
すぐに抱けたから余所の子供である 田久保亜蘭
市川崑『女王蜂』(1978)。市川崑ってすさまじい編集を行うというか、カットを暴力的に挿入することによって〈映画における認識の暴力〉をつねに問いかけていた映画監督だったんじゃないかと思うんです。だから市川=金田一シリーズでいつもばらばらに切り刻まれていたのは死体ではなくて、映画のほうだったとおもうんですよ。映画っていうのはそういう意味で殺人にも似ていたとおもうんですね。要素をばらばらに解体し、でもその解体された要素を観察者(探偵/観客)が意味=物語として再構成する。
二百とは脱げてしまった靴である 榊陽子
【二百とは鬼である】
短詩のなかの「デアル形」ってちょっとふしぎなんですね。
「である」っていうのは〈断定〉ですから、まずそう言われてしまったらこちらが何かを切り返す余裕がないという質感があります。
たとえば榊さんの句で「である」と言われてしまったので「二百ってなんですか?」と聞く余裕はありません。それはわたしたちが自分で考えなければいけない問題になります。語り手は断定して、終わったのですから。
受験現代文の解法に、評論を読む際、である/のであるにマークさせるというものがありますが、それは筆者の結論主張がもろに出てくるからですよね。それが文章の主旨なり要旨なりになってくるわけです。
ですから、冨二の句も、榊さんの句も、それまでのおおきな長いプロセスがあったはずなんですよ。いや、「である」といわれると感覚的にわたしたちはそこにたどりつくまでの長いプロセスを無意識に想定しているはずなんです。
ところが冨二も榊さんもそうした長いプロセスをあえて無視して、とつぜん「である」で読み手を殴りつけようとする。榊さんの句なら「二百」を説明しないことや「二百」を読み手に丸投げすることがここでは「である的暴力性」になって、この句のおもしろさになっているとおもうんですよね。
で、冨二だともっと強いパンチというか、「立ち上がると」なので、語り手ももしかしたらうすうす知ってはいたけれどいま気がついた、そして断定した「である」なんですよ。だからここにはたぶん〈認識の暴力〉もあるんじゃないかとおもう。
つまり、鬼でない可能性を語り手は棄却したんですよ。即断=速断したというか、独断で。
だから、「である」っていうのは実は〈認識の暴力〉であり、その〈暴力〉を読み手にくりだしていくことなんじゃないかとおもうんですよ。
だから『吾輩は猫である』って、実は〈認識の暴力〉の物語なんじゃないかとおもうんです。
すぐに抱けたから余所の子供である 田久保亜蘭
市川崑『女王蜂』(1978)。市川崑ってすさまじい編集を行うというか、カットを暴力的に挿入することによって〈映画における認識の暴力〉をつねに問いかけていた映画監督だったんじゃないかと思うんです。だから市川=金田一シリーズでいつもばらばらに切り刻まれていたのは死体ではなくて、映画のほうだったとおもうんですよ。映画っていうのはそういう意味で殺人にも似ていたとおもうんですね。要素をばらばらに解体し、でもその解体された要素を観察者(探偵/観客)が意味=物語として再構成する。
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