【ふしぎな川柳 第三十二夜】きもちがいい-渡部可奈子-
- 2015/11/25
- 05:34
アレチノギクの真っ逆さまはきもちがいい 渡部可奈子
【真っ逆さまのモラル】
この川柳、ちょっとおもしろいのが、定型が776になているんですね。
上7中7はよくあるんだけれども、下6というのがですね、「きもちいい」で5音になるのにわざわざ「きもちがいい」と6音にしてあるんです。
なんだろう、と。なんのためだろう、と。
で、こういうときたぶん気になるのが、ほんとうにそれが「きもちよかったのか」ということです。
たぶんほんとうに「きもちよかった」ら、「きもちいい」になるはずだとおもうんです。5音だと「きもちいい」し、スッと、終わります。ひっかかりなく。
ところが「きもちがいい」にすると、「が」で必ずひっかります。
「真っ逆さま」でいままさに落ちつつも、「が」でひっかかる。これがこの川柳の〈ひっかかり〉であり、〈真っ逆さま〉というふつうはありえない事態へのこの句の姿勢だとおもうんです。
川合大祐さんは〈形式〉への志向性意識が非常に高いメタ川柳をよくつくられるんですが、
字余りになって言えない愛している 川合大祐
この句もやはり下6になっています。「字余りになって言えない」といいながら、〈字余り〉で「愛している」と発話している句です。もちろん同時に発話していないはずです。「愛してる」なら、語り手は、できたのでしょう。ですが、語り手は、あえて〈引っかかり〉のある「愛している」を選んだ。それは定型で〈愛〉をスッと語ってはいけないからです。
そうすると、定型への向き合い方っていうのは、語り手のひとつの倫理観をもあらわすことになってくるようにおもうんですね。
ひとは愛するときや真っ逆さまになるときに、ふと定型をとおして、倫理観がでる。そんなふうにも、いえるのではないのでしょうか。
形式は、倫理やモラルを問いかけてくるのです。
揶揄らしい揶揄一輪 頭の夜明け 渡部可奈子
キェシロフスキ『愛に関する短いフィルム』(1991)。キェシロフスキ映画はたえず〈形式〉を通してモラルを問いかけてきます。この映画では愛が、〈覗く/覗かれる〉という視線の形式に問われるかたちになっています。大好きなら覗いてもいいのか、でも覗きをとおしてさえひとが通じ合ってしまったらその愛とはなんなのか、もしくは直接的に身体でコンタクトするのが愛なのか、覗きは覗きなのか、モラルに反したとしてもそこに愛が派生してしまった場合ひとはどうそれに対処すればいいのか、当事者は、第三者は。つまり、ここには〈覗く/覗かれる〉形式をとおした愛が語られることによって、同時に映画を〈愛する/愛さない/愛せない〉も問われているようにおもうんです。映画っていうのはひとつの〈覗き〉の形式なので。いま自分は覗いているんだというただならぬ事態を忘れる形式が〈映画〉です。
【真っ逆さまのモラル】
この川柳、ちょっとおもしろいのが、定型が776になているんですね。
上7中7はよくあるんだけれども、下6というのがですね、「きもちいい」で5音になるのにわざわざ「きもちがいい」と6音にしてあるんです。
なんだろう、と。なんのためだろう、と。
で、こういうときたぶん気になるのが、ほんとうにそれが「きもちよかったのか」ということです。
たぶんほんとうに「きもちよかった」ら、「きもちいい」になるはずだとおもうんです。5音だと「きもちいい」し、スッと、終わります。ひっかかりなく。
ところが「きもちがいい」にすると、「が」で必ずひっかります。
「真っ逆さま」でいままさに落ちつつも、「が」でひっかかる。これがこの川柳の〈ひっかかり〉であり、〈真っ逆さま〉というふつうはありえない事態へのこの句の姿勢だとおもうんです。
川合大祐さんは〈形式〉への志向性意識が非常に高いメタ川柳をよくつくられるんですが、
字余りになって言えない愛している 川合大祐
この句もやはり下6になっています。「字余りになって言えない」といいながら、〈字余り〉で「愛している」と発話している句です。もちろん同時に発話していないはずです。「愛してる」なら、語り手は、できたのでしょう。ですが、語り手は、あえて〈引っかかり〉のある「愛している」を選んだ。それは定型で〈愛〉をスッと語ってはいけないからです。
そうすると、定型への向き合い方っていうのは、語り手のひとつの倫理観をもあらわすことになってくるようにおもうんですね。
ひとは愛するときや真っ逆さまになるときに、ふと定型をとおして、倫理観がでる。そんなふうにも、いえるのではないのでしょうか。
形式は、倫理やモラルを問いかけてくるのです。
揶揄らしい揶揄一輪 頭の夜明け 渡部可奈子
キェシロフスキ『愛に関する短いフィルム』(1991)。キェシロフスキ映画はたえず〈形式〉を通してモラルを問いかけてきます。この映画では愛が、〈覗く/覗かれる〉という視線の形式に問われるかたちになっています。大好きなら覗いてもいいのか、でも覗きをとおしてさえひとが通じ合ってしまったらその愛とはなんなのか、もしくは直接的に身体でコンタクトするのが愛なのか、覗きは覗きなのか、モラルに反したとしてもそこに愛が派生してしまった場合ひとはどうそれに対処すればいいのか、当事者は、第三者は。つまり、ここには〈覗く/覗かれる〉形式をとおした愛が語られることによって、同時に映画を〈愛する/愛さない/愛せない〉も問われているようにおもうんです。映画っていうのはひとつの〈覗き〉の形式なので。いま自分は覗いているんだというただならぬ事態を忘れる形式が〈映画〉です。
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