【ふしぎな川柳 第三十四夜】刺しにゆく-石部明-
- 2015/11/25
- 07:16
春という一語をもって刺しにゆく 石部明
【犯罪はみんな唯物論的だ】
現代川柳でたびたび起こっていることに、言語が物質化するというものがあります。
その意味で、川柳っていうのはずっと唯物論的というか、そういう物質に規定された観念の世界をかんがえているということになります。
で、その言語唯物論者の最たる川柳作家が、わたしは石部明さんと佐藤みさ子さんなのではないかと考えています。
たとえば、この石部さんの句では「春という一語」が刺せるくらいには尖っているわけですが、裏返せば、「春という一語」が物質化さえしていなかったならば、語り手は〈犯罪者〉としての主体を手に入れることはできなかったはずです。
つまり、言語が物質化しているなかで、語り手は主体を手に入れているということになります。
これはでも実はけっこうあることですよね。かんがえてみると。
たとえば、わたしたちは「先生」と呼ばれれば「先生」という主体になっていくし、「お母さん」と呼ばれれば「お母さん」という主体になっていく。言語っていうのはそんなふうに唯物化し、主体(ソフトウェア)のハードウェアになってもいる。
それをラディカルに、過激にしたのが、この石部さんの句なのではないかとおもうんです。
言語は観念でもないし、遊離しているわけでもない。
モノとして、わたしたちに、わたしが誰であるかということに、働きかけて、くる。
そういうしゅんかんを、川柳は、えがく。
鎌を研ぐみな夕顔になりすまし 石部明
ルーカス『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』(1977)。『スターウォーズ』って観念論の世界だと思うんですよね。よく「フォースとともにあらんことを」というけれど、それって観念とともにあれ、ってことだとおもうんです。表面的な言葉の物質性に惑わされるな、と。だからたとえば石部さんの句なら言葉の物質性によってダークサイドに堕ちているわけですね。ダースベイダーになろうとしているひとなわけです。だから、ダースベイダーが非言語的規則をフー・パーってずっと吐いているのってちょっと興味深いとおもうんですよ。あれは言語が物質化されそうでされず、非物質化されそうでされない〈淡いの言語〉としてある。ダースベイダーはどこにもいけないわけです。たったひとりのベイダー語をもっている。
【犯罪はみんな唯物論的だ】
現代川柳でたびたび起こっていることに、言語が物質化するというものがあります。
その意味で、川柳っていうのはずっと唯物論的というか、そういう物質に規定された観念の世界をかんがえているということになります。
で、その言語唯物論者の最たる川柳作家が、わたしは石部明さんと佐藤みさ子さんなのではないかと考えています。
たとえば、この石部さんの句では「春という一語」が刺せるくらいには尖っているわけですが、裏返せば、「春という一語」が物質化さえしていなかったならば、語り手は〈犯罪者〉としての主体を手に入れることはできなかったはずです。
つまり、言語が物質化しているなかで、語り手は主体を手に入れているということになります。
これはでも実はけっこうあることですよね。かんがえてみると。
たとえば、わたしたちは「先生」と呼ばれれば「先生」という主体になっていくし、「お母さん」と呼ばれれば「お母さん」という主体になっていく。言語っていうのはそんなふうに唯物化し、主体(ソフトウェア)のハードウェアになってもいる。
それをラディカルに、過激にしたのが、この石部さんの句なのではないかとおもうんです。
言語は観念でもないし、遊離しているわけでもない。
モノとして、わたしたちに、わたしが誰であるかということに、働きかけて、くる。
そういうしゅんかんを、川柳は、えがく。
鎌を研ぐみな夕顔になりすまし 石部明
ルーカス『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』(1977)。『スターウォーズ』って観念論の世界だと思うんですよね。よく「フォースとともにあらんことを」というけれど、それって観念とともにあれ、ってことだとおもうんです。表面的な言葉の物質性に惑わされるな、と。だからたとえば石部さんの句なら言葉の物質性によってダークサイドに堕ちているわけですね。ダースベイダーになろうとしているひとなわけです。だから、ダースベイダーが非言語的規則をフー・パーってずっと吐いているのってちょっと興味深いとおもうんですよ。あれは言語が物質化されそうでされず、非物質化されそうでされない〈淡いの言語〉としてある。ダースベイダーはどこにもいけないわけです。たったひとりのベイダー語をもっている。
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