【ふしぎな川柳 第三十五夜】月世界旅行は美味しい-妹尾凛-
- 2015/11/25
- 12:00
満月のスライス山盛りのサラダ 妹尾凛
【お菓子の家にお菓子の月夜】
『川柳杜人』247号からの一句です。
きょう紹介した『ウォレスとグルミット』のウォレスはチーズが大好きで、月までチーズを取りにいくんですよ。なんでかっていうと、月自体がチーズだからです。
だからあの世界では月=チーズであり、月が食べられるものとしてあったんだけれども、この妹尾さんの句でも月は食べられるものとしてあります。サラダなので感覚としてはゆで卵に近いのかなあとも思うんですが、でもたぶんあくまで「満月のスライス」というのが正しいんだとおもいます。
しかもサラダは「山盛り」なのでたぶんサラダに満月のスライスはとっても合うし、美味しく食べられるんだろうとも思います。
妹尾さんの川柳ではこんなふうに気象が〈食べられる〉ものとしてあらわれています。
窓あけるミントとレモンの夜があける 妹尾凛
ヘンゼルとグレーテルの童話にもお菓子の家が出てきたけれど、妹尾さんの句では「夜」という抽象さえも食べられるものになっているのがポイントなんじゃないかとおもいます。〈時間帯〉が〈食べもの化〉しているということです。
で、こんなふうに〈食べ物化する世界〉ってなんなんだろう、って考えたときにですね、ひとつ言えそうなことは、それは〈有限化された世界〉になるということです。
食べ物化されたわけですから、腐るかもしれないし、食べれば量としても減っていく。温度や湿度によって時々刻々と味も質も変化していくものになる。
そういうリミットを世界に与え直すことが食べ物化なのかなあっておもうんですよね。
だから、ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家っていうのは、〈家=家族〉が有限であることのあらわれであるともおもうんですよ。それはときに解体され食べ尽くされてしまうものでもあるかもしれない、と。
しらしらと牛乳瓶を満たすもの 妹尾凛
溝口健二『雨月物語』(1953)。世界が食べ物化するということは世界と個との関係が問い返されるということでもありますよね。この世界と個との関係。溝口健二のこの映画をみるたびに、どうしてこの映画が幻想作家であるメキシコのカルロス・フエンテスにまで影響を与えたんだろうっておもうんですね。フエンテスは「アウラ」という歴史家が家=女=歴史に幽閉される二人称幻想小説を書いています。これはまさに『雨月物語』の「浅茅が宿」と「蛇性の婬」ですよね。で、溝口健二の映画って〈あつくるしくないな〉といつも観ていて思うんですが、たとえば刺される瞬間に遠景だったりするんです。苦悶の表情とかはクローズアップしない。そうするとどうしても個が〈どう〉生きたかというより、歴史や物語の磁場のなかで〈それとなく〉死んでいく人間というふに重心が出てくる。個が世界に翻弄される主題がでてくるとおもうんですよ。それがフエンテスがくみ取ったことなのではないか。
【お菓子の家にお菓子の月夜】
『川柳杜人』247号からの一句です。
きょう紹介した『ウォレスとグルミット』のウォレスはチーズが大好きで、月までチーズを取りにいくんですよ。なんでかっていうと、月自体がチーズだからです。
だからあの世界では月=チーズであり、月が食べられるものとしてあったんだけれども、この妹尾さんの句でも月は食べられるものとしてあります。サラダなので感覚としてはゆで卵に近いのかなあとも思うんですが、でもたぶんあくまで「満月のスライス」というのが正しいんだとおもいます。
しかもサラダは「山盛り」なのでたぶんサラダに満月のスライスはとっても合うし、美味しく食べられるんだろうとも思います。
妹尾さんの川柳ではこんなふうに気象が〈食べられる〉ものとしてあらわれています。
窓あけるミントとレモンの夜があける 妹尾凛
ヘンゼルとグレーテルの童話にもお菓子の家が出てきたけれど、妹尾さんの句では「夜」という抽象さえも食べられるものになっているのがポイントなんじゃないかとおもいます。〈時間帯〉が〈食べもの化〉しているということです。
で、こんなふうに〈食べ物化する世界〉ってなんなんだろう、って考えたときにですね、ひとつ言えそうなことは、それは〈有限化された世界〉になるということです。
食べ物化されたわけですから、腐るかもしれないし、食べれば量としても減っていく。温度や湿度によって時々刻々と味も質も変化していくものになる。
そういうリミットを世界に与え直すことが食べ物化なのかなあっておもうんですよね。
だから、ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家っていうのは、〈家=家族〉が有限であることのあらわれであるともおもうんですよ。それはときに解体され食べ尽くされてしまうものでもあるかもしれない、と。
しらしらと牛乳瓶を満たすもの 妹尾凛
溝口健二『雨月物語』(1953)。世界が食べ物化するということは世界と個との関係が問い返されるということでもありますよね。この世界と個との関係。溝口健二のこの映画をみるたびに、どうしてこの映画が幻想作家であるメキシコのカルロス・フエンテスにまで影響を与えたんだろうっておもうんですね。フエンテスは「アウラ」という歴史家が家=女=歴史に幽閉される二人称幻想小説を書いています。これはまさに『雨月物語』の「浅茅が宿」と「蛇性の婬」ですよね。で、溝口健二の映画って〈あつくるしくないな〉といつも観ていて思うんですが、たとえば刺される瞬間に遠景だったりするんです。苦悶の表情とかはクローズアップしない。そうするとどうしても個が〈どう〉生きたかというより、歴史や物語の磁場のなかで〈それとなく〉死んでいく人間というふに重心が出てくる。個が世界に翻弄される主題がでてくるとおもうんですよ。それがフエンテスがくみ取ったことなのではないか。
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