【ふしぎな川柳 第三十六夜】みんなで寝てしまおう-広瀬ちえみ-
- 2015/11/25
- 20:29
鍵のない箱を囲んで寝てしまう 広瀬ちえみ
その時、Kは、これで他人とのあらゆるつながりが断ち切られ、もちろん、自分はこれまでよりも自由な身になり、ふつうなら入れてもらえないこの場所で好きなだけ待っていることができる、そして、この自由は、自分が闘いとったもので、他人にはとてもできないことだろう、いまや誰も自分に触れたり、ここから追い出したりすることはできない、それどころか、自分に話しかけることもできまい、と思った。しかし、それと同時に、この確信も同じくらい強かったのだが、この自由、こうして待っていること、こうして誰からも干渉されずにいられること以上に無意味で絶望的なことがあるだろうかという気もするのであった。 カフカ『城』
【文学と眠り】
『杜人』247号の「詩人の家」からの一句です。
〈眠る〉ってね、とても不思議な動詞だとおもうんですよ。
カフカの『城』で、測量士が明け方近くの真っ暗な廊下からある部屋に迷い込むシーンがあるんですよ。
で、その部屋には部屋いっぱいに巨大なベッドがおいてある。そしてそのベッドには男がひとり眠っているんだけれど、どうもその男はベッドで一日中仕事をしているらしい(これがバスタブになればちょっと高野文子さんの『るきさん』やトゥーサンの『浴室』に似てきますね)。
で、測量士はベッドの端に腰掛けて彼の話をきいている。かれはいう。
失望したからといって、たじろいではなりません。はじめてここにやってくると、障害がまったくこえられない気がします。しかし、気をつけてみてください、事態とほとんど一致しないような機会がときおり生じるものなのです。ほんのひとこと、一度の眼差し、ちょっとした信頼のしるしによって、生涯にわたり、身心をすりへらして努力してきたよりも、ずっと多くのことが実現する、そんな機会が訪れるものです。 カフカ『城』
測量士はきくともなくそれをきいている。なんでかっていうと、かれはとても眠たいからです。実はカフカの『城』っていうのは城にたどりつけない物語、というよりも、眠ろうとして眠れないひとりの男の物語なんですね。彼は物語の冒頭からたびたび眠ろうとするんだけれども、ねむろうとするそのせつなにいつも妨害される。それが測量士のかれの〈眠り〉の物語でもあるわけです。そして〈城〉の権力は、かれを〈眠らせない〉ことにある。ひとが完全に権力から自由になるのはある意味、眠りにおちているときだからです。
ここでちえみさんの句です。「囲んで」なので、複数のひとがいっせいに眠りについているのがわかります。「眠りの森の美女」みたいですよ。みんな箱を囲んで眠っている。「鍵のない箱」だからこそ、きっとみんなで眠らないで守っていたんでしょう。だからかれらもまた、魔法をかけられて、いっせいにねむりこんだのかもしれない。
でも大事なことはそのことによって眠っている全員が「鍵のない箱」から解放された完全な自由を手に入れている点です。箱は奪われてしまうかもしれない。でも、眼に見えるものはそんなに大事ではない。問題なのは、眼に見えない部分に〈鍵〉をかけられてしまうことなのです。測量士のように。
だからたぶん、ねむっているみんなは、しあわせなんじゃないかとおもう。
そういえばプルーストの『失われた時を求めて』も偉大なる睡眠文学なんですよ。こんな大いなる眠りの書き出しからはじまっています。ねむねむしているような。
長いこと私は、早くから床についた。時には、ろうそくが消えるとすぐ目が閉じてしまって、ほら眠るぞ、と思うひまもないほどだった。そして、半時間もすると目が覚めるのだった。 プルースト『失われた時を求めて』
オーソン・ウェルズ『審判』(1962)。カフカの映画化はいろんなひとが行っていて、たとえば山村浩二が「田舎医者」をアニメ化していたり、ストローブ=ユイレが「アメリカ」を映画かしていたりします。ただ私はけっこうウェルズの誇張された構図は実はカフカの歪んだリアリズムをすごくわかりやすく視覚化しているんじゃないかとおもうんですよ。でもそのまったく逆のストローブ=ユイレの冷たい構図もカフカ的なのだから、カフカってふしぎなんです。だから、カフカって、核というかコアみたいなのがないんじゃないかとおもうんですよね。変身しつづけているのは、カフカの〈書いたもの〉そのものなのではないか。
その時、Kは、これで他人とのあらゆるつながりが断ち切られ、もちろん、自分はこれまでよりも自由な身になり、ふつうなら入れてもらえないこの場所で好きなだけ待っていることができる、そして、この自由は、自分が闘いとったもので、他人にはとてもできないことだろう、いまや誰も自分に触れたり、ここから追い出したりすることはできない、それどころか、自分に話しかけることもできまい、と思った。しかし、それと同時に、この確信も同じくらい強かったのだが、この自由、こうして待っていること、こうして誰からも干渉されずにいられること以上に無意味で絶望的なことがあるだろうかという気もするのであった。 カフカ『城』
【文学と眠り】
『杜人』247号の「詩人の家」からの一句です。
〈眠る〉ってね、とても不思議な動詞だとおもうんですよ。
カフカの『城』で、測量士が明け方近くの真っ暗な廊下からある部屋に迷い込むシーンがあるんですよ。
で、その部屋には部屋いっぱいに巨大なベッドがおいてある。そしてそのベッドには男がひとり眠っているんだけれど、どうもその男はベッドで一日中仕事をしているらしい(これがバスタブになればちょっと高野文子さんの『るきさん』やトゥーサンの『浴室』に似てきますね)。
で、測量士はベッドの端に腰掛けて彼の話をきいている。かれはいう。
失望したからといって、たじろいではなりません。はじめてここにやってくると、障害がまったくこえられない気がします。しかし、気をつけてみてください、事態とほとんど一致しないような機会がときおり生じるものなのです。ほんのひとこと、一度の眼差し、ちょっとした信頼のしるしによって、生涯にわたり、身心をすりへらして努力してきたよりも、ずっと多くのことが実現する、そんな機会が訪れるものです。 カフカ『城』
測量士はきくともなくそれをきいている。なんでかっていうと、かれはとても眠たいからです。実はカフカの『城』っていうのは城にたどりつけない物語、というよりも、眠ろうとして眠れないひとりの男の物語なんですね。彼は物語の冒頭からたびたび眠ろうとするんだけれども、ねむろうとするそのせつなにいつも妨害される。それが測量士のかれの〈眠り〉の物語でもあるわけです。そして〈城〉の権力は、かれを〈眠らせない〉ことにある。ひとが完全に権力から自由になるのはある意味、眠りにおちているときだからです。
ここでちえみさんの句です。「囲んで」なので、複数のひとがいっせいに眠りについているのがわかります。「眠りの森の美女」みたいですよ。みんな箱を囲んで眠っている。「鍵のない箱」だからこそ、きっとみんなで眠らないで守っていたんでしょう。だからかれらもまた、魔法をかけられて、いっせいにねむりこんだのかもしれない。
でも大事なことはそのことによって眠っている全員が「鍵のない箱」から解放された完全な自由を手に入れている点です。箱は奪われてしまうかもしれない。でも、眼に見えるものはそんなに大事ではない。問題なのは、眼に見えない部分に〈鍵〉をかけられてしまうことなのです。測量士のように。
だからたぶん、ねむっているみんなは、しあわせなんじゃないかとおもう。
そういえばプルーストの『失われた時を求めて』も偉大なる睡眠文学なんですよ。こんな大いなる眠りの書き出しからはじまっています。ねむねむしているような。
長いこと私は、早くから床についた。時には、ろうそくが消えるとすぐ目が閉じてしまって、ほら眠るぞ、と思うひまもないほどだった。そして、半時間もすると目が覚めるのだった。 プルースト『失われた時を求めて』
オーソン・ウェルズ『審判』(1962)。カフカの映画化はいろんなひとが行っていて、たとえば山村浩二が「田舎医者」をアニメ化していたり、ストローブ=ユイレが「アメリカ」を映画かしていたりします。ただ私はけっこうウェルズの誇張された構図は実はカフカの歪んだリアリズムをすごくわかりやすく視覚化しているんじゃないかとおもうんですよ。でもそのまったく逆のストローブ=ユイレの冷たい構図もカフカ的なのだから、カフカってふしぎなんです。だから、カフカって、核というかコアみたいなのがないんじゃないかとおもうんですよね。変身しつづけているのは、カフカの〈書いたもの〉そのものなのではないか。
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